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脱学校論

議論で教育が大切って結論に落ち着いた時、私たちは自然と「学校」で教えることを前提としていないだろうか?

教育って、本来学校で教えることよりもそれ以外の方が圧倒的に影響力も時間も大きい。

私たちは常に学校にではなく、環境に教育されているから。

一人一人が問題意識を発信し、それを共有し合うことの方が、学校で教えるよりも大切。

学校って何しても面白くなくなる魔物の住む空間だと思う。

少し前に「逃げるが恥だから役に立つ」を見た。

選択的夫婦別姓や女性の社会進出について、問題提起する素晴らしいドラマだった。

そしてみんな言った。

「これを学校で見せるべき!」

でも、私は思う。逃げ恥も、学校で見せた瞬間クソつまらなくなるのである。

逃げ恥はみんな見たくて見ていた。だから面白かった。

でも見たくもないドラマは当然つまらないし、学校という場所は、常に「聞きたくもない授業や話を聞かされている人」が出てしまう。

そこに学校の限界はある。

イリイチは、「脱学校の社会」で学校がない方が学びのためにはむしろ良いといったことは有名だが、私たちは今一度「学校」の限界を感じるべきなんじゃないか。

教育が大切と思うなら、それは学校教育以外の方法をもっと模索すべきじゃないか。

学校がないと平等じゃないとか、文化資本、環境によって子どもの育ち方が全く違うから学校は大切だというのは簡単だ。

でもそれは、学校教育の根本的な問題から目を背けているようにも思える。

あたかも学校は何もかも教えられるかのような認識を、教える側は持ってしまう。

あれやこれを、学校でやるべきだとか言ってしまう。

何かがおかしい。

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