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みんな違って、みんなどうでも良い〜落合陽一の言葉から〜

みんな違ってみんな良いという言葉は、考察者・評価者の主観が入り込んでいる。つまり、「良い」と表現をする場合は、誰にとって「良い」のかを考えなければならなず、「みんな違う」だけで問題ないはずなのに、なぜ「良い」場合しか認められないのか、良いというのは「あなたにとって」ではないのか、ということを考えなければならない。

みんな違ってみんなどうでも良い、という言葉は落合陽一がよく口にする。私はこの考え方に強く賛同している。この言葉が表しているのは、どうでも良いと冷たく突き放すべきということではない。無関心こそが、最大の愛情になり得る時があるということである。とりわけ、日本の社会では、「この人の性別は男か?女か?」とか「この髪型、髪色はよくない」とか「もっとこうあるべき」というパターナリスティックな側面(おせっかいな一面)が強い。これらはありがた迷惑な話だ。しかし、自分があらゆることに対してお節介に感じる場面がたくさんあったとしても、自分自身も他者に介入・干渉してしまうことが多々ある。そのような場面で重要なのは、無関心になることこそが、本当の愛情だということを思い出すことである。

不登校は何かに打ち込まなければならないのか?

少し視点を変えて。最近では、不登校が認められるようになってきた(そもそも不登校は"認められる"ようなものではなく、権利なのだから当然学校に行かない人もいるよねという話なのだが)。しかし、不登校と呼ばれる(ラベリングされる)児童生徒に対して、「学校に行かない代わりに、何かに打ち込みなさい」「学校に通うはずだった時間は何かに取り組みなさい」という指摘が、さも良いことかのように語られている。私が小さかった頃は、こういう監視される感じが非常に嫌だった。繰り返しになるが、学ぶことは権利であって義務ではない。したがって、学校に行かないことは生徒の自由である。そして、その時間を何に使おうがその人の自由である。しかし、それをなぜ関係ない他者が学校の代わりに何かしろと言えるのだろう。子供に何もしない自由は認められていない。これは自己決定権の侵害である。大人は子供をなめている。自分の理解できる範囲で、ある程度努力している姿を見せてもらえないと不安になる。このような過干渉な状態にこそ、みんな違ってみんなどうでも良いという発想が必要だ。よく考えれば、自分の子供が今日学校に行ったか、行ってないかを確認して知っているということ自体、非常に気持ち悪いことである。

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