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文系学部をいらないと思っている人へ

備忘録として。

私は文学部生である。学部では教育学を、教職では政治経済・倫理を専攻している。

そんな私の周りでは「文系は必要ない」とか「理系が苦手だから文系に来る」とかそういう声が聞こえてくる。

私は文系ほどつらい学問分野はないと確信しているし、文系が不要になる日など永遠に来ないと思っている。その理由を書いておきたい。

そもそも文系と理系の違いは何か

文系が対象にしているのは「人間」である。哲学も、文学も、社会学も、政治学も「人間」の営みを理解しようとしている。だから、学説はたくさんあるし、誤解を恐れずに言えば正解などない学問である(だからつらい)。

むしろ、議論と議論が衝突することでより高いレベルの発見を見出そうとする分野である。

他方、理系には再現性を重要視する側面があり、その理解の対象は「自然」である。自然を理解するためには、誰が検証しても同じ結果にたどり着く必要がある。

私の思う文系と理系の違いは、この「対象」の差異と、反論を認めるか、あるいは一切認めないかという学問的なスタンスの違いにあると思っている。

「技術」は人を幸せにするとは限らない

技術や科学の議論をすると、「最先端」だとか「役に立つ」という言葉が聞こえてくる。

しかし、この技術を利用するのは「人間」であって、その使い方によっては人を不幸にする。

「最先端」技術の「発展」によって、核兵器が開発された。それによって日本では大勢の死者がでた。

「最先端」技術の「発展」によって、様々な天然資源が必要となり、それを求めて戦争がおきた。

「最先端」技術の「発展」によって、個人情報は収集され、プロファイリングされ、最近の就活では企業が不当に得た個人情報をもとに不合格にされるケースが相次いだ。

今ここで取り上げた技術は「役に立った」のだろうか?

そもそも「最先端」「発展」と呼べるものだっただろうか?

むしろ、技術・科学は、人間生活を「後退」させているのはないだろうか?

ここからわかることは、何を「発展」と捉えるかは極めて「主観的なもの」だということである。

ある人にとってはそのような技術の変遷が、「よかったもの」「発展し役立ったもの」であるし、ある人にとっては「差別を助長したもの」「人間の尊厳を奪い、人類を後退させたもの」なのだ。

いくら新たな技術が開発されようと、それは「発展」とは限らないのである。

その技術の開発を「発展」と捉えるか、「後退」と捉えるか決定する、判断する主体は常に「人間」なのである。

この人間を扱うことができるのは「文系」という学問領域の他にないだ。だから文系が不要になる日は永遠に来ない。

開発された技術を使用するか否かを決断するのは「人間」

文系の研究者や学生は、理系の開発した技術を利用するか否かを決断する主体としての人間の集団である。

そして、何を我々の幸福かを定義するのは常に主体としての人間である。

技術は主体にはなり得ない。常に人間の下に位置する客体に過ぎない。

その技術が倫理に反しないか、我々の生活をむしろ侵害するものではないかを監視するのが文系の役割であり、そうした技術の利用が、我々の幸福に繋がるかを検討するものまた文系の役割である。

文系・理系のどちらが優れているとかそういう話ではない。

ただ、それぞれの役割があって、少なくとも文系の勉強はいらないと批判することは、私たちの人間性を否定することに他ならないということである。





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