【短編小説】 ミカ
先生にきつく抱き寄せられた。
珈琲やたばこの入りまじったにおいがして、においだけは立派な大人だなぁと思った。
この先生、いじめられてるって相談したとき、だいじょぶだいじょぶ! って言ってた。それから幼なじみが容姿のことでからかわれてると相談したときも、気にしない気にしない! って言ってた。
でもこんなふうに全身で後悔するんだ。
死んだら。
死ななきゃ理解してくれないし、行動しなきゃ誰にも見てもらえないのか。
言葉でなく行動で示せってことか。
だからみかは、行動で示したんだ。
さびたドアみたいな声がでて、瞬間、先生を突き飛ばした。低くうなった先生のほうなど一瞥もせずに、教室を出る。はちゃめちゃな歩き方をして、転がるように階段を降りた。学校のまん前の通路まで歩いて、いてもたってもいられなくて、走った。ぶつけたところが熱を帯びていく。風に紛れた虫が目に入ってくる。どうでもよかった。羽の明るい蝶がつぶれて死んでいるのが見えた。立ち止まる。
動けなくなった。
蝶の羽がぱらぱらとほどけて、空を舞っていく。
立って、いられなくなった。
“ミカ” と名のついた蝶の最期を、未来を一緒に見るはずだった “みか” が死んだ後に見届けるとか、なんだよこれ。悪趣味にもほどがあんだろクソッタレ。
『あ、ミカがいるよ』
上の言葉が、虫なんだかミカちゃんだか美佳ちゃんだか美香ちゃんがいんだか、解釈が何通りにもなるようになって久しい。
蝶に ミカ と名前をつけたのは、当時5才の男児。九州の山で見つけたらしい。名前の由来は男児の妹。
はじめは、妹の名前を虫につけるのやべーなと思ったけれど、実物が飛んでいる姿を見て、不思議と、ああこの虫は ミカ って名前をつけられるべく生まれたんだと思った。それと同時に、妹が世界で一番かわいいと思ってたんだろうな、と思った。
ミカ は息をのむほど美しい。絵が飛んでるみたいな、芸術作品が飛んでるみたいな感じ? 捕まえたらすっと消えて見えなくなっちゃうんじゃないかと思う。幻みたいな蝶。
発見され新聞の一面を飾った日から、自分の子どもに ミカ と名付ける親が増えた。カタカナで、ミカ。一種のブームのようなものだった。一学年に10人以上は ミカ がいるってこぞってメディアが取り上げていた。そんな話を みか にしたことがある。すると、みか ははじけるような明るい声で
『どうしよう。あたしアレが死んでる姿よりも醜いよ!』
冗談っぽく言っていたが、おもしろいとは思わなかった。だからすぐに、言うなよそんなこと、と怒った。けど みか はどこか違うところを見ていた。返答もなかった。
聞こえていたのだろうか。
聞こえていなかったんだろうな。
歩く。
歩く。
公園に着く。
ベンチに腰を下ろす。
あたりまえのようにミカが何匹もいる。
それをじっと見つめる。
徐々にこれが美しいのかどうかが、よくわからなくなっていくのを感じていた。
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