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比喩と直観

「事実と真実とは何が違うのか」ということを昔尋ねられたことがある。今回読んだのは霜山徳爾 著『人間の詩と真実――その心理学的考察』(中公新書)なのだが、読後にそんなことを思い出した。
端的にいえば、本書の主題は「人間とは何か」という問いである。ならば人間学の本かというと、少し趣が違う。言うなれば、本書で行われているのは哲学、文学、宗教など様々な領野を渉猟しながら、著者の臨床心理学者としての知見を交えつつ「生きている人間」を捉えようとする試みである。
本書の議論を参考にしながら、今日は「詩とは何か」ということについて考えてみたい。

そうはいっても「詩とは何か」という問いは大雑把に過ぎる。どう考えたものか。少し遠回りになるが、哲学史の話から始めてみよう。
哲学史はミレトスのタレス、イオニアの自然哲学から始めるのが一種の定番かもしれない。しばしばこれは「ミュートスからロゴスへ」という発展によって説明される。曰く、世界を神話(物語)によって説明する立場から、普遍的な原理によって説明する立場へと脱却することによって哲学が誕生した。だいたいこんな調子だ。
こうした説明はミュートスを哲学誕生のための否定的契機として捉えている。ミュートスはいわば虚構であり、真理ではない。哲学者の語るロゴスこそが正しい世界認識であり、ミュートスとは乗り越えられるべき未発達な世界認識であるという哲学史観だ。大仰な言い方をしたが、要するに、哲学史はその始まりにおいてミュートスに対するロゴスの優位を前提としている。

翻って詩の問題と絡めてみると、たとえばこんな言い方は可能だろうか。
「ロゴスを語るのが哲学者であり、ミュートスを語るのは詩人である」
そうは思わない。むしろこう言うべきだろう。
「哲学者はミュートスを語りうるし、詩人はロゴスを語りうる」
哲学者がミュートスを語りうることに関して、たとえばプラトンの『ティマイオス』は宇宙創造に関するミュートスである。あるいはパルメニデスとエンペドクレスはその思索を韻文で残し、ムーサを謳い上げている。
また詩人がロゴスを語りうるというのは、アリストテレスの『詩学』が参考になる。そこでは歴史家と詩人(作家)が対比されており、歴史家は実際に起きた特殊な出来事を語るのに対して、詩人(作家)は起こりそうな出来事を語るという意味において普遍的なことを語ると考えられている(1451b)。
以上を踏まえると、ロゴスとミュートスを対立的に捉えるのは限定的な見方に過ぎないように思う。ゆえに、ロゴスは真理でミュートスは虚妄だとか、あるいはロゴスは客観的でありミュートスは主観的であるというような主客の二元論は、今日の探究からは退けようと思う。

だが二元論を拒否したからといって、それだけでは何にもならない。代わりになるような視点をどのように獲得すればよいだろうか。ここで、『人間の詩と真実』から助けになりそうな箇所を引用してみよう。

もともと人間の生命の流れている原初的な調べを――したがって基本的な心理学的事実というものを――ギリシア人はムジケーとよび、それが二つに分かれて、ひとつは今日でいう音楽(ミュージック)になり、広義の芸術を意味するようになり、他方は散文的精神となり、科学へとつながっていくのである。両者はもともと親和性のあるものであり、 うたこそ両者の仲立ちをして、その初源を指し示すものである。

『人間の詩と真実』8頁

「科学と芸術」という風に並べると何か対立物のように見えるかもしれないが、これらはムジケーにおいて同根である。あるいはテクネー(technē)は単なる技術ではなく技芸、すなわちアルス(ars)を意味することを想起されたい。
しかし、「なるほど科学と芸術との間には親和性があるのか!」という感覚はどうも私にはわからない。それはなんだか難しいことで、天才的直観のなせる業か、あるいは碩学にのみ許された特殊な境地のように思える。
そうなると、両者の仲立ちとして(打算的ではあるが)詩に期待をかけてみるしかない。

だが詩に期待するといっても、具体的には詩のどんなところに期待すればよいのだろう。
ここからは比喩について考えてみたい。「比喩とは何か」という問いはそれ自体難問だが、再び『詩学』を参照してみよう。すなわち、比喩とは「あるものごとに対して、本来は別のものごとを名指す語を適用すること」である(1457b. 翻訳は中公バックス『世界の名著8 アリストテレス』〔333頁〕の藤沢令夫訳)。
たとえばプラトンの『饗宴』においてアルキビアデスはソクラテスをシレノスの像に喩えている。これは簡単にいえば、外見は醜いが内部に素晴らしいものが隠されているという話だ。無論ソクラテスとシレノスの像とは同一ではなく、これらは「本来は別のものごとを名指す語」である。だが「自分、ソクラテスさんのことマジでリスペクトしてるッス!」というよりは、「ソクラテスはね、シレノスの像にそっくりなんだよ」という方が深い。いや、そういう話か?
真面目に話そう。「ソクラテスはすごい」ということをアルキビアデスが言いたかったとして、「ソクラテスはすごい!」と直接言ってもつまらない。そこで一見関係のないソクラテスとシレノスの像とを並べて、聞き手に両者の本質的な共通性を直観させる。これが比喩の妙技であろう。

比喩を文の装飾と捉えれば、「比喩を使わないとつまらない、比喩を使った方が面白い」という洞察を今日のオチにしていただろう。だが、気になるのは比喩を認識の問題と捉えた場合である。これがたぶん詩と関わる。
比喩の驚異とは異なる者同士の共通性を直観させるという点にある。まず比喩を使われてそれを認識できるということが異常であり、それを上手に操る者は一層異常である。なぜかそうした異常なことを人間はできてしまっているのであり、その主たる担い手が詩人である。
ここで再び『人間の詩と真実』の力を借りよう。

比喩というものは、なにか人間性の底にある生きた体感の世界から浮び上ってくるものであり、逆にいえば体感は比喩においてもっとも現実的にとらえられるのであり、われわれはその場合、言葉の非疎通性に苦しまないのである。

『人間の詩と真実』32頁

われわれは何か言葉にできないような体感、あるいは気分というものを常に抱えている。そうした心性の微妙なニュアンスはどうやっても言語化できないもののようにも思える。私の体験でいえば、何かに感動してしまったときに「言葉にできない」という思いを強烈に感じる。あと(意外なのだが)スポーツをしている時の身体操作の感覚などにも言語の非疎通性を覚える。これは他人に対しても、自分に対しても非疎通的であるように思う。

だが、どういうわけか、比喩はこうした非疎通性を凌駕する力をもつらしい。その力は主として芸術の領域において発揮され、特に詩においては言葉という形式において現れる。そこで起きているのは仮象が真実になるという逆説であり、これを思弁的理性で説明することはできないと結論することは、一つの謙虚な態度かもしれない。だが今回の探究だけでも、個別に取り扱うべき問題がたくさん出てきてしまったように思う。ゆえに一旦結論は保留しておこう。
一先ず今回得られた洞察として、以下の二つを記憶しておく。一つは詩の最も強力な効能として比喩が考えられること。もう一つは比喩によって異なるもの同士の共通性を認識させる、あるいは表現することが可能であること。この二点が重要そうだなと思っている。

……先延ばしはいつも甘美である。
最後に、今回読んだ『人間の詩と真実』について改めて話そう。最初にも述べたが本書は、本当に、古今東西の様々な文芸を取り扱っている。議論の中で紹介できなかったが、私は文岱の雁風呂の詩(185頁)が一番面白いと思った。
素人目で恐縮だが中公新書の本だと、河合隼雄の『無意識の構造』や、木村敏の『時間と自己』なんかは本書と大きく共鳴するところがあると思う。そこら辺が好きな人にはお勧めの本である。

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