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知識とロゴス

プラトンの『テアイテトス』を前から読んでみたかった。今回は光文社古典新訳文庫の渡辺邦夫訳を読んだのだが、いざ読んでみると難しい。
主題は「知識とは何か」である。全体の流れとしては
①「知識とは知覚である」
②「知識とは真の考えである」
③「知識とは真の考えに説明規定が加わったものである」
という三つの説が検討され、そのすべてが否定されるというのがオチである。
議論の中で面白いテーマはたくさん出てくるのだが、本稿では③に関連して「ロゴスとは何か」ということを考えてみようと思う。

まずは予備的な確認から始めよう。本書では「説明規定」と訳されているロゴスであるが、中々に多義的な言葉である。試みに出隆の『アリストテレス哲学入門』(岩波書店)からどのような訳語があるかを調べ(145-146頁注(2)を参照)、下記のように分類してみた。
(A)話、言葉、文句――広い意味として
(B)言表、説明方式、定義――「何であるか」に関する語
(C)理性――知性に関する語
(D)理、道理、理由――論理に関する語
(E)比、割合、計量――量に関する語

これがラテン語に訳されると“ratio”となり「理性」の意が前面に出てくる。英語の“ratio”だと「比」だ。
また、名詞“logos”の動詞形 “legein”は「話す」、「語る」といった「言葉」に関係する意味があるが、この他に「集める」の意がある。この「集約」(Sammlung)こそロゴスの中心的な意味であるとハイデガーが指摘しており、私はこの観点を重視している(『形而上学入門』第四章「存在と限定」に詳しい)。

次は『テアイテトス』におけるロゴスの規定を見ていこう。「知識とは真の考えに説明規定が加わったものである」という第三定義の検討に際して、ロゴスの意味は以下の順で考究される。
(1)声に出して発話された言葉
(2)本質を要素の組で表す記述
(3)対象を、この世に唯一あるものとして確定する記述

(1)に関して、ここでは実際に発話された言葉としてのロゴスが考えられている。しかし、「知識とは頭の中で考えているうちは知識ではなく、声として外に出したら知識になる」とは考えられないので、この意味でのロゴスは検討から早々に退けられる。
(2)ではストイケイオン(字母、要素)という観点が登場する。ここでのロゴスは部分と全体との関係において考えられており、知識という全体を構成する諸要素を詳説・列挙するものがロゴスである。だがこの意味でのロゴスは、類題で間違えたら確かな能力とはいえないという理由で検討から退けられる(329頁注4)。
(3)では「他のものとの区別」という観点が登場する。たとえば太陽について考えるとき、太陽は「地球の周りを動く天体のうちで最も明るいものである」という説明がこれに当たる。そして、この「他のものとの区別」という意味でのロゴスは二つの理由で退けられる。一つは既に特定している考え(たとえば太陽)をもう一度もてと命令することになるから。もう一つは区別する知識を持てという、知識の定義において循環した命令を出すことになるからである。

こうして(1)から(3)までの定義が退けられたのだが、だからといって探究を諦めるのは早計だ。特に(2)「本質を要素の組で表す記述」はプラトンが重視しているロゴスの定義である。というのも、(2)のロゴスの意味は「『それぞれのものが何であるか?』と問われて、その質問者に一つひとつの字母を通じて答えをいうことができるということ」(206E-207A)と説明されているが、これは問答法のことでもあり、プラトン哲学における基本的な探究態度であるからだ(325頁注1、467頁解説)。
そうなると(2)の定義を捨ててしまうのはなんだか勿体ない。これに再検討を加え、より優れたロゴスの定義が求められないだろうか。

改めて考え直すと(2)の定義は「類題で間違えたら確かな能力とはいえない」という理由で退けられた。ここでの議論を見てみよう。
ソクラテスは「類題で間違える」ときの具体例として、文字を学習した人が“Theaitetos”と綴れても、“Theodoros”を“Teodoros”と書き間違える(ΘとΤとを間違える)場合を挙げている(207E-208A)。この人は文字の要素(字母)を列挙できるが、文字を正しく使用できていないという点で無知であるといえる。

違う例を考えてみよう。たとえば1+2は3であると解答できる人が、12+34は45であると計算ミスをしたとする。先の例と同じように考えれば、この人は足し算を知らないといえる。そうなると足し算を「知っている」という要件を満たすためには、どんな形式においても足し算ができる状態でなければならないだろう。
だが、1+2を答えられるか、12+34を答えられるか、123+345を答えられるか……などと一々具体的な計算について考えてもキリがない。この方法ではいつまでたっても「私は足し算について知っている、ただし蓋然的に」としか言うことができない。

ここに「一般化」という観点を加える必要があるように思う。公式化、法則化といってもよい。ロゴスは諸要素の詳説・列挙であると先に述べたが、それは単なる散在ではなく、構造を有した集合である。
たとえば文字の例で考えれば、字母は単にa,b,c……と存在しているのではなく、言語学の要素として存在している。また足し算の例で考えれば、数は単に1,2,3……と存在しているのではなく、数学の要素として存在している。言い換えれば、ロゴスとは学習領域を条件として持つ要素の集まりである。このように考えた方がロゴスの定義として収まりがよいのではないだろうか。

……いや、部分と全体で循環が起きている。どこかで間違えたようだ。しかし今から考え直すのも、もう体力的に無理そうだ。無念だがそろそろオチをつけよう。


以前に岩田靖夫の『ソクラテス』(勁草書房)を読んだ時のことを思い出した。そこではソクラテスが徳に関する個別的・具体的な知識は有していたが、それらを組織化する一般理論をもっていなかったということが説明されている(118頁)。たぶんこれが念頭にあって、ロゴスに関しても「一般化」、それに「集約性」という観点を加えれば説明ができると私は思ったのだろう。
果たして当てが外れたのか、論証をしくじったのか。少なくとも私はロゴスについて「知っている」と語るのは控えたほうが賢明だろう。

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