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コスモロジーの形成と喪失

月食を見ながら「何で私はこんなものを見ているのだ?」と思ったことがある。天体への関心。それはたとえば生活上の要請として暦法の制定や、信仰上の問題として自然崇拝の中にその根源を求めることができるかもしれない。
そんなことを考えて、一先ず星辰崇拝の本を探してみたのだがいい感じのものが見つからない。ならばアプローチを変えて占星術の本でも読んでみようかと思った。

今回読んだのは中山茂 著『西洋占星術――科学と魔術のあいだ』(講談社現代新書)。なんだか妖しげなタイトルだが、本書は科学哲学の本である。端的にいえば「占星術は科学か?」というのが本書の主題だ。この問いに対して、「科学と魔術のあいだ」という視点から歴史現象ないしは社会現象として占星術を捉えながら、占星術と科学との関係が論じられている。
私の問いは本書の論点とずれている。だが面白そうなテーマであるし、あわよくば問いの深化を願って本書の論述を見ていこう。


占星術の歴史的起源はバビロニアのカルデア人に求められる。占星術はまずその前史としての星辰崇拝から発展する形で、天変占星術として成立した。天変占星術とは「天にあらわれた、人を驚かせ不安にさせるような変事を、地上に災厄をもたらす前兆と考え、来るべき災厄を占うものである」(28頁)。日月食や惑星の運行は天下国家の運命に直結する重大事であり、その多くは畏怖の対象であったようだ。
だが、天文学の発達により天文現象が予測可能となると、それまで凶兆だったものがルーティンと化す。惑星の配置もより正確に計算可能となり、ある人が生まれた時に星がどのような位置にあったのかということも特定可能になる。こうして誕生したのが個人の運勢を占う宿命占星術である。
天変占星術から宿命占星術への推移は、為政者のためのものであった占いが個人のためのものとなったという意味で、ある種の世俗化の動きと見ることもできるかもしれない。「カルデアの知恵」と呼ばれた占星術の知識は、こうした天文学的知見を含んだ宿命占星術であり、これがギリシャ・ローマの文化へと引き継がれていくことになる。

ギリシャにおいてカルデアの知恵を利用する能力のあった最初の人は恐らくエウドクソス(前四世紀アカデメイア派の数学者・天文学者)であった。同心天球説の提唱者としてアリストテレス天体論の先駆としても知られる人物であるが、エウドクソス自身は占星術的な知恵に関して否定的であったようだ。
このことから少なくともカルデアの天文学的知識はアカデメイアやリュケイオンに知られていたことがわかるが、占星術研究がアテナイにおいて活発であったとは言い難い。占星術の開花。それが起きたのはアレクサンドリアにおいてであり、時代的にいえばヘレニズム期のことである。
ヘレニズム期の占星術の特徴としてはホロスコープの活用があげられる。ホロスコープとは生誕時の惑星の位置を示す天体図のことであり、これを用いた占いは紀元前二世紀のヒッパルコス以後になって確認されるようになる。
その後、紀元後二世紀のクラウディオス・プトレマイオスの『アルマゲスト』によって天文学が、『テトラビブロス』によって占星術が体系化される。これらの知識は古典期ギリシャの科学知識とは区別されてヘレニズムの科学と呼ばれ、以後プトレマイオスの天文学・占星術の知識は天動説パラダイムとして近代(コペルニクスの登場)まで影響を及ぼすことになる。

ローマにおける占星術の発展は科学史の観点からすれば特筆すべき点はないかもしれない。だが、「ローマ社会はおそらく有史以来、上から下まで宿命占星術の必然性がもっとも信じられた社会であろう」と語られるように(104頁)、社会現象として占星術を捉えるとどうだろうか。
たとえばローマの初代皇帝アウグストスの治下では人の死期を占うことが禁じられた。これは倫理的な配慮というよりも、皇帝の死期を占われると政情不安を引き起こすという政治的な理由によるものであった。
また、野心ある貴族は子弟のホロスコープを占星術師に占わせ、皇帝の相が出るかを調べさせた。しかし本当に皇帝の相が出たからといってそれが公になれば逆賊として処刑されかねないので、占いの結果は秘密にせねばならなかったようだ。
トラシュロスという、二代皇帝ティベリウスに仕えた宮廷占星術師がいる。哲学史においてはプラトン全集の編集者としても知られる人物だ。それにしても宮廷占星術師……字面だけでも胸が高鳴る。私が脚本家だったら絶対悪役にする。実際トラシュロスは皇帝のアドバイザーとして政治にも影響力を持っていたらしい。彼はその立場を利用し、ある時はローマから占星術師を追放させ、またある時は次代の帝位継承争いを影ながら操ったと本書では語られている(111-116頁)。
これらのエピソードからわかるのは占星術の社会的影響の大きさであり、ローマの人々が熱心に占星術を信じ、活用していたということだろう。
だが、キリスト教の普及に伴いヘレニズムの科学は次第に衰えていく。そもそも多神教的なヘレニズムは一神教的なヘブライズムと折り合いが悪い。占星術もその起源からして星辰崇拝であり、多神教的な宗教活動であったといえよう。こうしてキリスト教の発展と共に異端の知識とみなされるようになった占星術は、かつてのヘレニズム期に嘱望された科学への道は閉ざされ、単なる民間信仰と化したのであった。

中世における占星術の制限はキリスト教に基づく思想的な理由によるものであった。といっても、その反応は拒絶一辺倒であったというわけでもないようだ。
十二世紀ルネサンスの時期にイスラム圏から様々な学問がラテン圏に流入した。占星術に関していえばアブ・マシャール(九世紀のイスラム科学者)の『占星術大全』が有名である。これはプトレマイオスの占星術を整理したもので、スコラ学者に大きな影響を与えた。
大学においては黄道十二宮と身体の部分とを対応させる占星医学(イアトロマティカ)が医学部のカリキュラムに加えられる。また、ルネサンス期のプラトン主義者は数学尊重の立場から占星術の価値を認めた。プラトン主義はその神秘主義的側面において、アリストテレス主義よりも魔術的思索を容易に受容したといえる。
ここで、占星術と魔術との関係を考えてみよう。目的論的に見れば、両者はともにオカルト的情念を動機として持っていた。だがその手段の側から見ると、魔術師は術者の意志において状況設定を変更できるが、占星術師はそれができない。人の都合で星は動かせないのである。客観的な原理に従うという意味において、占星術は普遍性を志向する科学であったといえよう。

十六世紀に入ると占星術を取り巻く状況は一変する。コペルニクスの『天球の回転について』が発表されたのである。プトレマイオスの天動説パラダイムが地動説パラダイムにとってかわられる時がついに来たのだ。
コペルニクス革命が占星術にもたらした影響は大きく二つ挙げられる。一つは惑星の数の変化。これは従来の占星術で取り扱った七惑星(日月火水木金土)が、六惑星(水金地火木土)に変わったということだ。このせいで占星術師はホロスコープの全面的な改定を余儀なくされた。
もう一つは運命観の変化である。それまで天球に貼りついた星々に見守られながら暮らしていた人間が、突如茫漠たる宇宙空間に放り出されたのである。地球は宇宙の中心ではなくなり、太陽は恒星の一つとなり、距離的にも相対化された諸惑星が及ぼす地上への影響も信じられなくなった。
ある意味で人間は星の宿命から解放されたのである。だがそれはむしろ、ニヒリスティックな宇宙に放逐されたといった方がよいのかもしれない。

十七世紀に入ると、自然現象を物質とその運動で説明しようとする機械論的自然観が流行した。デカルト哲学の自然観をイメージすればよいだろうか。これに対してニュートン力学成立以降の、力によって全ての自然現象を説明しようとする考え方を力学的自然観と本書では呼んでいる。
力学的自然観の成立は科学の方法と対象とを決定づけた。科学一般が対象とする自然現象はすべて力学現象に還元される仕方で研究される。このとき、人間の自由意志が介在するような社会現象・心理現象は力学現象に還元できないものとして科学の対象から除外されるのである。
いうまでもなく、力学的自然観の支配する科学の領域に、人生の予測を立てるような占星術が入り込む余地は最早ない。占星術が科学としてのパラダイムを天文学と共有できたのは近代以前までである。両者の共有点は数学であったが、科学のパラダイムは力学に移ってしまった。天文学は天体力学となったのである。
こうして占星術は科学と袂を分かち、近代科学の側から見れば「科学から脱落した」のだと本書では語られる(169頁)。


今回の考究では天体への関心をきっかけに占星術の歴史を見てきた。振り返ればそこには天と地とが対応しながら有機的な連関を保っている宇宙観、天地相関主義のコスモロジーが根底にあるように思える。
こうした世界観に何の憧憬も抱かないと断言するのは私には難しい。だからといって「ヘレニズム的科学精神の復活を」などと壮語できるはずもない。自戒を込めていえば、それは近代批判が陥りがちな軽率な復古主義に過ぎない。
それと、本稿を読み返しながらふと気になったのはコペルニクス革命のくだりで「ニヒリスティックな宇宙」と自分で書いた箇所である。何か、ここに我執が漏れ出てしまった気がする。宇宙論とニヒリズム。これは今後の課題にしよう。
ちなみに今回私が読んだのは講談社現代新書の版であるが、本書は講談社学術文庫でも出版されている。学術文庫版の方が新しく、解説もついているので関心のある方にはそちらをお勧めする。

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