見出し画像

ホン雑記 Vol.162「以心伝心自心他心」

スッコーーーンとnoteを書くのを忘れてた。日曜日だからか。あーあ、11時過ぎちゃった。まぁしょうがない。いや、だいぶイヤ。


おとといこんな記事を書いた。とりあえず1分間やりなさいっておはなし。この1分間ってのは少ない時間のたとえで、まぁとりあえずやりなよってことだと勝手に解釈している。1秒だっていいんだと。

結局、心の中で「あぁ、まぁいいか今日は」と諦めるあの残念な心持ちに1度でもいいからカウンターパンチを喰らわせる儀式なんだと思うのだ。


昨日あたりから、オレの心がこの日課noteと朝のジョギングの意義に異議を唱え始めた。イギイギしちゃってる。イキイキはしてない。

「たいした人数も見てないのに、この平均して1時間半ほどかかるnoteを毎日書いてる意味はなんなんだろうか」と、また心にポッカリと穴があきそうになっているので全力で埋め戻している。
承認欲求の話を昨日書いたばかりではないのか。noteを書き始めて1年が過ぎたけど、こんなものがいつまで出たり引っ込んだりするのだ。

すこぶるノスタルジャーな自分があとで読み返す楽しみのため、中身が薄まろうととにかく継続させることで価値を生むため。そのふたつだけを考えて続けようと決めたではないか。
あぁ、でもこれは永遠のテーマなんだろうなぁ。


自分が音楽している時間がすべてで、無人島にひとり住むことになっても1日の大半を音楽していられればそれで100%完全に幸せと思えるほど音楽の神に愛された音楽家がいたとして、それでもショーマンシップがゼロってことはないと思うのだ。
たとえ地球上の最後のひとりになった時に音楽していても、そこにショーマンシップはあると思う。
つまり、必ず頭の中に聴衆は居るのだ、と。

言葉も音楽もそうだけど、「伝えること」を意識されないそれらは存在しえないんじゃないか。買い物メモでさえ、未来の自分に忘れてくれるなと伝えてる。自分? 自分はまた別じゃない?

………。

このあたりのことを延々と考えていると、またすぐにスピリッツな発想に結び付いていくのだな。つまり「本当のところは自も他もないよ」って。



なぜ人は、こんな病的にも伝えたがるんだろう。届けたがるんだろう。
先に意志や目的があって、物質や物事が生まれるという不思議なことを信じてるところがオレはある。
二足歩行が人の前身に手を使わせて、それによって起こった脳内の革命の末に作られた領域で言葉を使えるようになったとはいえ、本当はずっとずっと「伝えたい」が先にあって言葉を使えるように仕向けたと思うのだ。
「伝えたい」が先にあったのは動物のあらゆる習性を見れば瞭然としてるんだけど、その連綿たる「伝えたい」の行く末に言葉があるなら、「他者」を意識しない文字など有り得ない… どころか、「他」とのすべての関わりを綴ったものが文字で、それは「伝えたい」から逃れ…


はーーーーーっ!
振り返ってみたらしょうもない中二病的哲学してんなオイ! なんか言ってることループしてるじゃねーか。

いやいや、螺旋だと言ってくれたまえよ。同じことの繰り返しに見えてちょっとは前に進んでんだよ。

しらんけどな。




サポート大歓迎です! そりゃそうか!😆 頂いた暁には、自分の音楽か『しもぶくりん』への「やる気スポンサー」としてなるべく(なるべく?)覚えておきます✋ 具体的には嫁のさらなるぜい肉に変わります。