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ホン雑記931「映画も舞台観劇と同じで最後のカメラワークは自分なの」

いまじゃ巨匠の感を呈してきた新海誠の2007年の映画『秒速5センチメートル』を観た。

全3話から成るちょっとしたオムニバス形式、だけどつながってる形式で結構好きな感じだったし、2回ぐらい泣いた。


で、いつものごとく、わからんところがたーくさんあったので、ググり窓で「秒速5センチメートル」って入れてみたら検索候補の一番上に「気持ち悪い」って出てきた。

おい。
失礼だなキミたち。オレの涙を返せ。いや、別に奪われてないか。ふっふふ、かわいそうなヤツらよ。あの良さがわからんとはね。

でもまぁ、言われてみれば主人公、ストーカーチックで気持ち悪いし、ビミョーにイヤなヤツだし、軽くサイコパシーなんだよ。
でもまぁ、そんなのは別にフツーじゃんか。自分の周りの1割ぐらいはそんな人だと思ってんだけど。
主題歌である山崎まさよしの「One more time one more chance」に相当力添えされてるとはいえ、良かったけどなぁ。出会いと別れで超青春じゃないっすか。

見終わったあとに新海監督のインタビュー動画も見たんだけどね。「特に何も起こってない。普通のことを描いてる」ってなこと言ってたのよ。
ワシ「ほ、ホンマや」ってなってさ。特に何も起こってないのよマジで。1時間見終えてから(1時間なんです)気づいたけど。

で、監督も「離れていかなきゃならない隔たりの理由が特にあるわけでもない。なんとなく惹かれ合って、また離れていく」ってなこと言ってるわけだけど、ワシまた「ほ、ホンマや」ってなったさ。ホントにフツーなのよ。
伏線に見えるようなこともいくつかあったと思うんだけど、何も回収されないままエンドロール流れてきてちょっとビックリしたってのはある。

んがっ、んがっですよ。
「そういうのをアニメで作りたかった」って監督言うてはるわけ。「あえてそういうのを、あえてアニメで」ってことじゃない。
ここでおじちゃん思いましたよ。その新海はんの行動こそが、「人間讃歌」じゃーないかと!
おじちゃんそこに至って、またそこで泣いたわさ。

つまりね、メタ的な感動なんだよ、あれは。絵描きの326ミツルの詩じゃないけどさ、オマエがゼロなら意味を感じられないんだよ。
普通のどこにでもある人間模様をわざわざアニメーション映画にすること自体が、作品の作品たる大いなる理由なんだよ。しらんけど。
練られたストーリ―や伏線回収なんてどうだっていいんだ。だってそんなもん、ワテらの人生でそうそう起こらんやんか。

『耳をすませば』を観て軽くウツになった人たちが増産されたという。自分の甘酸っぱくもない青春と比べちゃったんだな。
オレ? オレは耳すまはジブリ映画で2番目に好きやで。あ~、だからそういうとこちゃうの? 気持ち悪いって思っちゃうのって、そういうとことちゃうの~ん?
なのにだよ、フッツーの暮らしを描いても文句言うんだったらもうどうしろってのよって話だよな。作り手たちもさ。ま、何が出て来ても、出てこなくても文句言ってんだろな。

つまりこの作品ってさ、『電影少女』のビデオガール「あい」が人間に憧れるっていうのと似てるっぽくね?
まったくベクトル逆だけど、『銀河鉄道999』で機械の体を欲しがってる鉄郎の思いともさ。
つまり「人間って、いいもんだよね」っていうことじゃんか。普通の生活模様がこうやって映画になるほど。
つまりそれってさ(よーつまるね)、「私たちの人生はまるで映画のようだわ! ハラショー!」って新海はんが言うてはるようなもんやん?


いやー、ホンマ逆やで。逆。文句ばっかり言うとらんと、感謝せなあかんねんで。おんどれら。
フッツーのよ、自力では自分の人生を彩りあるステージとみなせない凡夫どもによ、教えてくれてんねんで。アニメ映画にすることによって、生活上での普段見逃がしている幸福との癒着して見えない部位を客観的に見せられることで、否が応でも気づかされるっていうね。

つまりそれってさ、アインシュタインが言ってた「人間に絶望してはならない。なぜなら、私たちは人間だから」っていう大エールと同じこと言ってるわけだぜ。そりゃーすんごい映画なんだぜ。




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【今日の過去詩リーズ】




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