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ホン雑記 Vol.801「誰がために」

昨日の日焼けのお供でドリアン助川氏の『プチ革命 言葉の森を育てよう』を読み終えた。


簡単にこの本の内容を表すなら「無意識でもなく強制でもなく、興味あるジャンルの名刺をとにかく覚えよう」ということだ。
と、言葉だけで言われてもなんともチープな感じがしちゃうわよねぇ。書いたオレもそんな感じがしちゃってるぐらいだし。

でもこれは実際やってみないとわからないんだと思う。
たとえば、新たに興味が出てきたジャンルの名刺を100覚える(本のほうでは1000だが)、もしくは100覚えるとしたらあなたはどんなジャンルの言葉を覚えるだろうか、といった内容が何度か出てくる。
ドリさんの知人らにそんなテーマでインタビューする場面が収録されてるんだけど、映画『もがりの森』や『あん』で著名な河瀨直美監督とのやりとりは特に良かった。オレの芸術観を根底から、それも長年鬱蒼としていた界隈が特に晴れ渡った気がした。

河瀨監督が、
「私たちは心の中を言葉を使って表現するけれど、心が100%伝わることはない。 伝え方の技術がある人とない人がいて、それによって見え方が変わってくる。みんなに受け止められるかどうかということね。技術がない人は、想いを伝えられないまま土に戻っていく。私はその、土のなかの人の言葉を伝えたい」
と言うのに対してドリアン氏は、
「表現したいことがあるのに、それができずに消えていった人たち?」
と返す。
「そうです。私はなんとなくそれを感じて、映画という形にする技術を得た人。で、それが私の役割」

どうしようもなく生意気なことに、オレは小5ぐらいから「オレはお前ら凡夫どもとは違う」とどこか思ってた。で、ほっとけばアウトロー気味なヤツらと気が合うことで、それプラス音楽の才があったことで(いまのSNS時代ではたいしたレベルではなくなってしまったけど)、まことに鼻持ちならぬ性格であった。ま、いまでもその残滓は結構残ってるんだが。

でもずっと「この考え方は間違ってる」という感覚はあった。人の世に偉いもすごいもないということだけは完璧に魂のようなところでわかる。が、脳なのか心なのか、「いーやオレは違う。オレだけは違う。いっしょにすんなハゲどもが」と、まぁそれはオレ本体なんだろうけど、どーしたって思ってしまう自分がいて、間違ってることだけはわかるもんだから、美しくねーよなーと思ってはいた。
それが河瀨監督のこの言葉で何やらガチャンと切り替わった気がする。軽い転轍期なのかもしれない。

とはいえ、まだまだ驕り高ぶっていると思われてもしかたない。つまり、自分を「伝え方の技術がある人」に分別してるわけで。
が、きっとあるほうなんだろう。ここまで言葉と、己の琴線に苛まれてる人を周りでは見かけないからだ。
逆の人物を思い浮かべようとしたら、すぐに出てきた。オトンだ。もう死んでるんで余計そう思うのかもだけど、いやいや、やっぱ生きてる時からぶきっちょな人だったな。
で、その言葉少ななところはなぜかオレにとっては「美しさ」として映ってた。そんなことを息子が思ってたと知るよしもなく死んでったんだろうなぁ。それが残念ではあるけど、その残念はまたオレを伝える側に押し込めていくんで、これはこれでいい。ってか、全然これでいい。
表現したかったことがあったかもしれない人の表現されなかった表現を受け取るのが、真の表現者なのかもしれないな。思えばゴッホや賢治もそんな人じゃないか。自分の思いを発信する者ではなく、人々の生活の苦悩を受信する人だった。


凡夫と錯覚していた働く人々がいなければ、オレは伝えることすら何もないのかもしれない。
あぁ、前から「無言館」や「知覧特攻平和会館」に惹かれるのはそういうことだったのか。なんとなくわかってたのか。




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【今日の過去曲(Youtubeだと概要欄に歌詞あります)】


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