考える葦になりたい

久しぶりにnoteを開いてみたが、そこには何も変わっていない自分が相変わらずいる。
だが、変わったこともすこしずつある。例えば、コーヒーをカフェインレスに眠る前はかえたり、意識して窓を開け日を浴びるようになったり、買い物が少しずつできるようになったり、朝ちょっとずつ起きる時間が早くなったり。周りからみたら本当に変わって、ないんだろうな。でも私のことをわかっているのは私しかいない。だからほめてあげるのも私の役目だ。

そうわかってきたのも、福祉をつかい相談場所を増やせたことで、自分の病気を”治らないものだ”と認めつつあること、”やれないことはやれないし、できないなりに何かをするしかない”ということが身についてきたからなんだろう。一人きりで井戸の中にいるとみじめだし、世界一不幸だと思いがちだ。井戸からすこしずつ上へ上るとそこには同じように苦しんでいたり、自分より大変そうな人、健康で私たち病人を見下している人、何も考えてない人、本当にそれぞれいる。
わたしは世界一周したわけでも引っ越ししたわけでもないからこれもたぶんまだ井戸の中の井戸なんだろう。まるでマトリョーシカだ。完全に外の世界に開けることはなく死んでいくだろう。

障害者に理解できない人なんて山ほどいるし、むしろ私たちの中でも理解できてないことはたくさんある。
理解できないことは理解できないものだ。自分が体験してなかったら私も同じように健康で障害者を見下して”かわいそう”に思ったり思わずクスクス笑ってたかも。そう考えると最低だし、今のほうがましなのかもしれないとも思う。もしも話なんて、世界一くだらない時間(何も変わらない)だから考えないことが一番だ。でも振り返ることでたまにはいいのかもと時々考える。

他人への理解など一生できない。これが私の持論だ。
でも理解しようと努力できるのが人間だ。
考える葦とかも聞いたこともあるけれど、人間なんて結局動物なのだから、細かいことにこだわらないのが一番気楽なんだろう。一気に変わることはできない(特に歳をとった頭ではどんどん難しくなる)。すこしずつ変わることはできる。悪い方にもいいほうにも。その良い、悪いも人それぞれだけど。
理解は無理だけど、考えは変えることができる。そう信じている。




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