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和解のかたち。

日々一歩一歩、着実に踏み出している。母親の前で手帳をつかっても怒られなかった。母親もひとりのにんげんとして生きているのだとこの身で肌で感じている。お姉ちゃんに伝わることばがないとき、わたしのなかで葛藤や混乱がある。祖母のうつがひどくて、もうこのひとは根っこからそうなんじゃないかと疑ったままいちにちを終えることが多い。心労が耐えない。このままではいけない、となんどもなんども祖母には訴えてきたけれど、この家の主を名乗る祖母はなにひとつ行動をしないようにみえる。わたしが朝活しないかと誘ってみたら祖母はそっとそっと泣いていた。しかしわたしはもう祖母の気持ちを察したくないなと思っている。ごはんを準備してほしい、洗濯物をやってほしい、食器を片付けてほしいと、成長期であったわたしはどんなに怒鳴られながら過ごしただろう。ゆるしたくないものがある。ゆずりたくないものもある。ここまでだ、みたいな区切りをつけて、祖母に意思を提示するけれど否定されるばかりでやってられない。母親とも出かけるけれど、ひとり行動も増えてきた。お昼ごはんに公園で手づくりのおべんとをひとりぼっちでたべたことをきっかけに、すこし自信がついた。どこがどう不調か、じぶんのことばで示せるようになった。ひた隠しになんてしたくなかったよ、ずっと。

お姉ちゃんはよく夜景をみている。ひとりで呼吸をするためだろうなとこの頃よく思う。ふと窓をあけて話しかけてみたら、軽く飛んだり跳ねたり、ステップをたたんと踏んだりしていて、いとしいなあと思った。もうすこし、もうすこし、なのだと思う。約束を覚えているからね。お出かけ、お菓子やおやつ、ほしい本をぜったい買おうね。何年も、何年分、わたしのいのち一生分約束する。

ふとしたときに傷つけて信頼関係や信用をうしなってしまうことが、ほんとうにこわい。積み重ねてきたはずのものが、じぶんの意識を彷徨って、関係性に追突する。崩れ落ちた信用はなかなかすぐにはもどらない。ひどく葛藤するし混乱するけれど、なんとか冷静になれている。お姉ちゃんの成長だけでなく、じぶん自身の成長も見守っているよ。どうかわたしを。どうかきみを。そしてあなたを。

ひとがすきだ。丁寧に織ってゆくような思いやりや親切を持ったひとにすごく感化される。いとしいな、と思う。御返しをするというよりも、わたしもそのとき目の前に居るだれかへ親切にしたい、思いやりをもちたい、と思う。わたしはそれも含めて、丁寧な暮らしと呼んでいる。

和解のかたちはおうちのなかでも、ひとそれぞれで、むきたてのゆでたまごみたいだ。すぐに熱でかたちが変わってしまうし、熱が落ちつくとかたちはそのまま維持する。けれど切っても片割れであるし、〝えにし〟が途絶えるのとはなんだかちがう気がする。もう生きてきたぶんの年数会っていない父親だってそうだ。生保の援助について、わたし宛に通知がとどくけれど(返信はしないのだけど)、彼は彼で生きているのだなと知る。お葬式にも顔を出すつもりもないし、もしかしたら一生会わないのかもしれないけれど、ときどき思い出している。…わたしの父親へ。誕生日も血液型も、顔も声も仕草もまったくわからないけれど、どこかでどんなかたちであれ生き抜いてください。


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