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いろんなもの持ってての自分

ふと、他の方のnoteを読んでいて、自分が色弱だったことを思い出した。確か、緑系の色が識別できなかった記憶がある。全ての緑が見えないわけではなく、濃い緑と黒がいまいちわからない、そんな程度だった気がする。

色弱を指摘されたのは、小学生の頃。母親と数度に渡り、眼科に通院していた。医師からは電気系の仕事にはつけないと言われ、通院の帰りの車の中で、「信号の色は見えるか?」と母親が心配していたのを思い出す。

そして、私が小学生の頃は、健康診断で、色覚検査が毎年学校で行われていた。今はしてないそう。何枚もページをめくられ、カラフルな丸がいっぱいある中から、数字や図形を探し出すもの。私には見えるものも、見えないものもある。「また見えなかった…」苦痛でしかなかった。

中学に入ってからは、そのような検査がなくなり、やがて社会人になると、もはや色弱であることさえも忘れていた。このnoteを書いているのが不思議なくらい、ここ数十年は忘れていた。思い出せば、濃い緑と黒がわからず、「あれ緑?黒だよね?」っていう会話が何度かあったような、無かったような。

そこで早速ネットで検索して、例の丸いっぱいの模様を奥さんと見たら、やっぱり奥さんには見えて、僕には見えないものがある。僕、色弱です!

日常生活には、なんの支障もなかったから、忘れていたけど、僕は半世紀、色弱という障害を持って生きてきたのだ。でも、障害とは感じてこなかったけど、これから眼科に行けば必ず診断されるだろうし、さっき奥さんとも検査したから、これは事実。

それで、僕が思ったのは、

何かしら、みんな多かれ少なかれ、いろんなもの持ってるんじゃないかなって。僕の色弱みたいに、忘れてしまうものもあれば、例えば人にもの言えないとか、すぐ赤面しちゃうとか、大量に手汗かいちゃうとか、人の言葉に敏感になって、やがては滅入っちゃうとか(これすべて僕です)。そんな自分が嫌で嫌で仕方がなかった時もあったけど、半世紀、色弱と生きてきたということは、今の自分は、いいとか悪いとかじゃなくて、全て紛れもない自分自身なんだってこと。

だから、時々、「あの人って◯◯だよねーっ」て言ってる人を見ると、いやいやあなたもあんな一面もあるじゃんって思ってしまう。僕自身がいろんなもの持ってるから。

それって障害?

いや個性?

きっと僕自身!

ということになった。

これからも色弱と付き合って生きていきまーす!

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