【社会探訪】迷える羊に、ハードボイルドの花束を。
僕は羊は羊でも、可愛い子羊ではない。
(シャイな中年の羊です。しかも、無愛想な羊です)
だから、単に「今時」についていけない「迷える羊」なのかもしれない。だとしても、やはり「今時」に、何か違う、チグハグだ、と違和感を感じたりしている。
それは一体、何なんだろう?
今は、奔流のような変化の時代だ。
グローバル化、経済安保、GX、DX、EX、内部統制、LGBTQ、女性活躍、働き方改革、PDCA、コンピテンシーモデルによる人材育成、見える化・・・
現代社会は、変革のかけ声と、標準化、管理、監視、修正、評価に溢れている。そして、僕らはそれらに追われている。振り回されている。
嫌だが、そうした「今時」の考え方は正しい。指摘されている社会課題の解決は必要だからだ。
ただし、現実の世界では、正解は一つではない。
今のアプローチだけが正解なわけでもないだろう。
欧米の定めるスタンダードを丸飲みし、その思想から生まれるルールを滔々と唯一の正解のように語られると、まるで経済敗戦を迎えたかのように感じる。
今の仕事の流儀では、僕らの良さや強みを活かせず、僕らのメンタリティーにも合わない。主体性を失ない、振り回される徒労感を覚える。僕らは、僕らなりの良さを活かして、課題解決に貢献できるはずだ。
勿論、偏狭な民族主義は良くない。我々は歴史から学ばねばならない。他者から学ぶ姿勢や意識の開放性は大切だ。欧米、そして中国も相手をよく研究している。
しかし、何よりも問題なのは、変化の奔流が既成概念を否定したにも係らず、解放感もなく、ただ生きづらい、と多くの人が感じていることだろう。
では、なぜ生きづらいのか?
・日本の国力が落ちて、じり貧になったせいか?
・個性を封じられ、労働の主体性を失ったからか?
マルクスの言う労働の疎外が起きているのか?
・人生の道標(ロールモデル)を失ったからか?
いずれも当てはまりそうだが、だとしたら、
僕らは、何を寄る辺に生きていけばよいのだろう?
だから、人は不安を感じる。
斯くして、一旦立止まり、僕らの強みとメンタリティーにマッチした価値観の再構築が必要となる。
1.再構築の羅針盤とは?~ある私立探偵の格言
その際に大切にしたいこと。
「強くなければ、生きていけない、
優しくなければ、生きる資格がない」
至言だ。米国人作家、レイモンド・チャンドラーの小説「プレイバック」に登場する私立探偵P.マーロウのセリフである。1958年発刊、60年以上前の話だ(と言いつつ、実は小説は読んでません、スミマセン)。
確かに、強くなければ、生きていけない。僕も30年以上、ビジネスパーソンとして働いてきた。間違いない。日本は国際競争で生き残なければ、豊かさを維持できない。競争は苛烈で、みな必死だ。だから、生き残りをかけ、生きづらさに耐えて、働いている。
一方で、もう利益を稼ぐだけでは、共同体の存在意義とはならない。この世界が様々な課題を抱えるなかで、稼ぐだけが目的の共同体には、人はついてこない、発想も生まれない。稼ぐことを第一義とおくと、目の前に精一杯となり、現状強化に働くからだ。でも、それではもう、世界も日本も複雑な現代社会の課題を解決できないことに人々は気づいている。過去の延長上に未来はない。
では、そもそも共同体の存在意義は何なのか?
何のために、人は社会を形成したのか?
利己的な人間間の争いを抑制する為、突き詰めれば、誰一人取り残さない為となる。それ故、人間は生まれながらにして、自由・平等の権利を持つにも係らず、それを制限して、法の支配に従う。放っておいたら、人間は闘争状態に入ってしまうからだ。
社会契約説的な考え方だが、SDGsにも繋がり、僕らの感覚に近いのではなかろうか。人が本来の自由の一部の権利を放棄して、社会が形成されているならば、社会が誰一人取り残さず面倒を見るのは、当然と言えば、当然である。そう、優しくなければ、生きる資格がない。
誰も取り残さないということは、好きな人、嫌いな人、勝者と敗者、金持ちと貧者、全ての人を受け入れると言うことだ。そして、その様な寛容な考え方は、イノベーションを生む多様な人材と文化を育み、社会を発展させ、豊かにする。そのような可能性を生むと言うことだ。
だから、僕らは、強さも優しさも、兼ね備えねばならない。
2.優しさ!誰一人取残さない、そして挑戦を励ます
社会は、弱者はもとより挑戦した敗者に安心を提供し、誰一人取残さない。だから、個人は安心して個性を活かし、挑戦し、そして社会はその挑戦を支え、活気をもって発展する。そんな元気で寛容な優しさが、実は、今時に必要なのではないだろうか。
(1)日本のお金持ちは高齢者で「諭吉」さんが好き:
日本の家計金融資産残高は2,000兆円を超えたと言う。GDPの3倍以上だ。その6割を60才以上の高齢者が保有する。50才台を合わせると8割以上だ。資金は高齢者に集中し、その半分は現預金として眠っている。
にも係らず、現役世代をターゲットに置いた経済のまま、資金のある高齢者向けの産業やサービスの開発は進まず、だから消費は振るわない、投資が増えるわけでもない。もったいない話だ。
https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/atarashii_sihonsyugi/bunkakai/sisanshotoku_dai1/siryou3.pdf
(出典:内閣官房「資産所得倍増に関する基礎資料集」P2,3)
ならば、高度成長期にノスタルジーを持たず、高齢者を消費者と現役世代の挑戦を応援する投資家して捉え直し、潜在的な役割を引き出したらいい、と思う。
しかし、高齢者は年金生活者であり、経済的には保守的な行動にならざるえない。思ったより長生きして、結果的に過大消費となって行き詰まり、世間や子供に面倒をかけたくない。ここにも心理的安全が必要となる。投資に失敗して、年甲斐もなく無分別な行動、自業自得と整理されたら、高齢者は誰も投資はしないだろう。
(2)消費と投資に資金が循環するには?:
とにかく日本国内でお金が回らないと再生は始まらない。失敗は変革に必要なリスクであり、誰かが背負わざるを得ない。資産分布からすると資金提供者は、消費にせよ、投資にせよ、高齢者にならざる得ない。
が、資金があるからと言って高齢者に寄せてリスクを押し付けてよいものか。エンジェル・リスクが高齢者に過大で、資金還流のボトルネックとなるならば、高齢者と社会でリスクシェアすれば解決する。
また、そのような高齢者の行動が、社会価値のある行動と認知され、高齢者を後押しする社会的評価が必要であろう。今日の若者も明日の老人である。理解を得られるはずだ。
(3)人生の経済活動が変化する:
すると、世代間の役割分担の再編の姿が見えてくる。現役世代は創造し、挑戦し、生産する。高齢者はそれを見守り、消費し、支援し、投資する。それが、これからの人生の役割分担だろう。
勿論、労働力不足でもあるし、元気で意欲ある高齢者は現役で働くべきである。個人差があるので、画一的に押し込めずに、多様に働けば良いと思う。自由な社会とは、多くの選択肢の提供だけではなく、個性を受け入れる寛容さだと思う。
3.強さ!国際社会に不可欠かつ日本固有の機能を構築
(1)国際社会の分断とグローバル経済の2層化:
今、米国一強を背景としたシンプルなグローバル経済の時代は終焉を迎えようとしている。中国の台頭を始めとした地政学的な変化と経済的格差の拡大により、世界は分断が進んでいる。国際的なサプライチェーンは再構築を余儀なくされ、地産地消化と経済安保圏の形成が進んでいる。
デジタル技術の革新にのって、ソフト経済のグローバル化は進むであろうが、ハード経済は地産地消化・経済安保圏化に進まざるえない。
(2)GDP大国を超えて:
少子高齢化、人口減少を考えると、国内市場依存型の日本のGDP大国の復活は厳しい。だから、海外の成長地域を取り込めというが、国際情勢が複雑化、国際経済が分断化する中で単純にはいかないだろう。もの作りが国の生業になっている今、この方向性を放棄するわけにもいかないが、これだけに頼るわけにもいかない。
かつて世界がグローバリズムを謳歌する中で、国際企業が国際社会の主役を担い、国家の役割の終焉が囁かれた時代もあった。しかし、世界の分断が進み、国際経済でも経済安保が重視される環境では、国家の役割は復活せざるをえない。国の強さと豊かさを考える上で、最近の地政学的な緊張感からすると、まずは安全保障から始める必要がある。僕らの安全が確保されない限り、強さも豊かさもへったくれもない。
国際社会における安全保障の担保と経済面での豊かさ両立する一つの理想的な姿として、
-----国際社会に不可欠にして他国が真似できない機能を国際社会に組み込む。もし日本に侵攻したら、その他国自身もその日本の果たす機能を失って自国の不利益となり、第三国もその侵攻を許さない。そのような機能を備えた世界標準の高付加価値産業を創造し、安全保証と豊かさを両立する-----
と言ったことが考えられる。
18世紀のドイツ哲学者カントはその著書「永遠平和のために」おいて、国際平和を維持する体制は、統一世界国家か、国々の平和連合か、という問いに、後者だとし、多様性の尊重を説いた。現代の国際連合の礎となる論文とも言われるが、覇権以外にも、世界に貢献し、影響力を示す在り方はあり得ると期待したい(現在のウクライナ侵攻、中東情勢の緊迫、台湾海峡の緊張は、現実の厳しさを突きつけるが)。
では、それは、どのような産業か?
まずは必要条件として、他国の支配下では維持できないような機能、即ち、歴史、文化、国民性に深く結び付いたものでなければならないであろう。十分条件は、その中でも、鍵となる仕組みのディファクトとコンテンツを握ることだ。
例えば、強く秘密保持を求められる金融において、スイスが世界金融で果たしてきた機能は参考になる。世界の富裕層を中心とした信用である。政治的には永世中立国となることで、国際経済的に確立した金融の信用機能をより強固なものとした。政経の国家戦略が相互に組噛み合って機能している。小国であるが、どの国も手を出さず、手を出せない国となっている。さらにクリーンなイメージを観光、精密機械等の他産業に展開、国のブランディングに成功した国と言える。
日本の政策議論は、このような視点からすれば、経済大国復活の処方箋に偏っているように思える。少子高齢化対策も経済理論上の労働投入量の減少対策に映る。でも本当に、人口減少を止められるのか?、或いは、デジタルでカバーしきれるのだろうか?現実を受け入れた上で、針路を考えるべきでないか?
過去の成功モデル、GDP大国復活に拘り過ぎることはない。例えば、上記の高度な少子高齢化対応モデルでもいい。日本固有の文化を活かして、国内で少子高齢化に対応する社会モデルを開発し、高齢社会化が進む世界にソリューション・モデルを広める。それは衰退ではなく、人類の社会モデルの進化に貢献することだと思う。
(出典:厚生労働省)
かつて日本は戦争に負け、富国強兵から大転換し、「所得倍増」、「日本列島改造論」を掲げ、経済大国にまい進した。成功モデルの慣性から脱するには、そのような求心力ある鮮烈なビジョンを世の中にぶつける必要があるかもしれない。それで、目指すところに当りがつけば、知識と技術が蓄積した今の時代、解決方法は見つかる。変わるには、同じ方向に転進する力が必要だ。
(3)どのような分野に可能性があるのか?
GDP大国の復活に向けてか、もの作りの復活が重視されるが、地政学的に分断が進むなか、ハード分野のグローバルなインパクトは限定的であろう。国際社会に無くてはならない機能提供と言った大局的な観点からは、国際経済の2層化を踏えると、ソフト分野重視の方が適切に思える。既存事業分野では世界に歯が立たないが、GX、DX、EXで新市場が創出されてきている。日本が先行する少子高齢化社会は、いずれ世界の国々も抱える課題だ。新市場を中心に、世界に無くてはならない、かつ日本でしか果たせない役割と機能の創造に機会を見い出したい。
また海外市場を国内に引き込むという点では、インバウンドも魅力的だ。それだけだはなく、「世界に無くてはならない日本」として安全保障上の有力な広報媒体になり得る。日本文化を発信し、共感してもらい、国のブランドを磨く絶好の機会とも言える。
4.「優しさ」と「強さ」の共創戦略
以上のようなコンセプトを実現する根源的な要件は、弱者、敗者、誰も取り残さない寛容な精神である。それには、自他の分別を超えて拡張された意識が文化として必要となる。そして、日本の歴史、文化、そこで培われた国民性にはその素地がある。
そのような日本文化に共感する世界中のプロ人材を集め、ラグビーのナショナルチームのような独自性と開放性を両立し、世界の秩序にその機能を組み込み、関連する産業でマネタイズする。
GDPランキングが抜かれようが、人口が減ろうが、少子高齢化が進もうが、諦めることはない。むしろ、そこにチャンスがある。一方で、海外の人々を受入れ、包摂する文化力を築けるかが、僕らに試される。
(1)経済分野でどんな妄想ができるか?
~例えば、人生100年立国論!?
2,000兆円を超える膨大な金融資産の半分は高齢者の貯金・現金のままで、消費にも投資にも回っていないことは前に触れた。それで、経済が元気だったら、むしろ異常であろう。高齢者の滞留資金を消費と投資に回せばいい。現役世代をターゲットとするモノ中心の経済から、コトを含む高齢者向けの産業を拡大し、高齢者の消費を促すとともに、高齢者から資金を集めて、成長性ある新事業を創造出来れば、消費も投資も伸び、結果的にGDPも拡大する。
わが国は、世界で少子高齢化の先頭を走っている。当然に、労働者不足に陥っている。同時に、脱炭素、再生エネルギーや社会インフラの老朽化と言った課題を抱えいる。これらを解決していくには、個別対応ではなく、
✔️ロボットとAIの活用による自動化、
✔️働き手のマルチタスク化と働き方改革、
✔️誰もが使用する情報端末を活用したDX基盤整備、
✔️GXな都市・交通基盤の整備、
✔️EXなエネルギー開発、
✔️エネルギー・資源・製品の循環経済整備、
といった総合的な構造改革が必要だ。社会的価値観を踏えて社会モデルをデザインし、その実現に必要なハードとソフト、サービスを組み合せて供給する必要がある。
必要な要素技術の蓄積があり、加えて相手の立場を理解、尊重する日本は、メンタリティーとしても得意な産業分野であろう。少子高齢化は、経済発展に伴う世界各国の宿命の課題だ。システムを提供した後も、リモート環境技術が発展する中、そのオペレーションを国際的な業務委託として受けることも可能となる。遠隔医療で対応できるヘルスケアは、ツーリズムと合わせれば、海外需要も取り込める有望な産業分野となる。世界の要人、富裕層の健康管理は、スイスの財産情報にも劣らぬ貴重な安保的戦略資産ともなる。いわば、人生100年時代の産業立国だ。
現役世代が革新的な機能開発、事業創造に果敢にチャレンジし、高齢者がエンジェルとしてその挑戦を応援、新事業に投資が回るような仕組みを整えれば、再生のチャンスがある。そして、年金生活者が主体の高齢者層が、安心して消費し、投資できるような心理的安全を確保する制度が確立すれば、こうした循環の起爆剤となり、流れが加速するであろう。
(2)制度、体制、基盤はどうなるか?
仮に、以上のような戦略を支える社会システムには、どのような要件が必要なのか、考えてみたい。
① 誰も取り残さない社会作り。繰り返しになるが、社会的弱者はもとより、新事業・新技術の挑戦者、消費や投資をためらう高齢者の心理的安全を確保する制度が求められる。国内経済の資金循環を再生し、チャレンジ精神を復活させ、機能開発・事業創造に繋げるには、不可欠な条件であろう。
② 世界に無くてはならない機能の開発とそのマネタイズには、国家戦略、技術、マーケティングを統合した国レベルでの研究開発体制が必要と考える。
人生100年立国論に拘らず、他に代わるビジョンを目指すせよ、戦略的に、統合的に、規模感を持って取り組まないと、世界には太刀打ちできない。アップル、マイクロソフト、グーグルの時価総額は200~300兆円。研究開発力が企業体力=時価総額と比例するとするならば、日本企業の時価総額はトヨタが40兆円、その他の有力企業もぜいぜい十数兆円規模であり、民間任せではとても敵わない。ちなみに、グーグルの研究開発費は年間2~3兆円、日本の全大学合計の研究開発費は年間2兆円だそうである。
そもそも破壊的イノベーションは、米国のインターネットをはじめ産官学連携によるところが大きい。日本にも、国家レベルの総合的で戦略的な統合研究開発体制が必要と思う。でなければ、国民の盾となり、安全保障の柱となるような機能を生むイノベーションは望めない。競争に勝てるイメージが湧かない。
かつて日本でも、明治政府が事業開発を行い、その官営事業を民間に払い下げ、国主導で産業革命に成功した実績がある。今、産業革命に相当する大変革期に直面しているのではなかろうか。
③ 人事制度改革、特に評価制度。依然として年功序列、終身雇用の残像があるところに、欧米流のガバナンスと結びついて化学反応を起こし、日本企業には忖度文化が蔓延している。出る杭は打たれ、とても個性を活かして自由に挑戦し、発想を転換した新しいアイデアを提供できる環境にない。
しかも、PDCAと見える化が進み、挑戦よりも蓋然性の説明や内向きな根回しに翻弄され、長時間労働やストレスの大きな原因になっている。挑戦はトライ&エラーなのであり、その蓋然性の立証など、どだい無理な話、不毛な議論だ。
また、挑戦には失敗がつきものであり、これをポジティブに評価する仕組みにしなければ、新陳代謝は生まれない。過去の成功体験の継承と同質の後任選定が継続し、新時代に適応した人材の登用もままならない構造となっている。
これをブレーク・スルーするには、ビジネスの発想やプロセスを変える必要がある。社会的価値は何かをまず考え、その後に事業性を検証する。利益から考える進め方では、革新的なアイデアは生まれない。多様性を活かしてイノベーションを生み、価値観先行で事業を構想し、それをどうマネタイズするか、逆転したプロセスが必要となる。
その為には、プロセスに合わせた人事制度・評価の修正が必要になる。定量指標に偏重した成果評価は限界だ。多様性が求められる中、画一的な評価モデルも無理がある。特に、資格基準として活用されるコンピテンシーモデルは、現在の成功者から成功要件を単一モデルに抽出して資格別に纏めるものであり、変革期での弊害が大きい。何故なら、多様性に対応出来ないばかりか、後継者選定に現状強化が働くからだ。
少なくとも、堺屋太一「組織の盛衰」(部門長、参謀、補佐役)のように組織に必要な人物タイプを分け、経営チームが作れるように、目指す人材像や評価軸の複線化が必要だと思う。
5.日本文化の固有性を検証する
ここで、競争力の差別化の源泉とした日本文化を検証してみたい。日本文化は、以上のような戦略において、競争力の源泉となりえるのだろうか?まずは、ざっと日本の文化形成の歴史を振り返ってみよう。
そもそも日本古来の固有の宗教として神道があった。ウィキペディアによると、神道とは、
「神道は、日本の宗教。惟神道(かんながらのみち)ともいう。教典や具体的な教えはなく、開祖もいない。神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづくアニミズム的、祖霊崇拝的な民族宗教である。自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた」とある。
教義もなく、教祖もなく、多くの自然や自然現象を神とする宗教。そういった意味では、空で開放的な、不思議と言えば不思議な、民俗的と言えば民俗的な宗教である(宗教学的には、自然宗教と呼ぶらしい)。こうした精神風土に、聖徳太子の時代の前後から、仏教が律令国家としての国作りの中核に据えられ、全国に広がり、融合する。諸行無常、諸法無我の仏教と、空で開放的な神道とは馴染みが良かったのではないだろうか。自我を固定した存在として見なさず、全体の中の一部として認識する無我の感覚、或いは、自然や世界との一体的な世界観が培われた、と考えられる。
武士の時代となった鎌倉時代以降、特に室町時代以降、仏教の中でも禅宗がユニークな影響を日本文化に与えた。茶道、剣道、柔道、弓道、華道と数あまた「●●道」が日本には多くある。それらは、禅の精神が技の習得と結びつき、型を通して、理屈抜きに体得し、その意味を自ら気づくことで、技の上達と同時に自己の内面を高める、と言った点は共通している。結果、日本人の多くが、規律、規範の実践に美意識を感じ、自らを律するところに美学を感じるようになった。だから、人が見ぬところにも手を抜かず、行列を作ったり、震災があっても被災地で規律が保たれるといった、「自律」の精神の原点になったのだろう。「自灯明・法灯明」という釈迦の涅槃の言葉もあるように、自らに由るところ(自由)は、仏教の原点でもあり、日本人の感覚の拠り処でもある。
江戸時代には、徳川幕府が、儒教、特に朱子学を重んじ、全国の大名に礼儀と規律を徹底、統治体制を安定させた。儒教は神道と融合し、場の雰囲気を権威とする、和の「空気文化」ともいうべき文化が生まれた。欧州でも、ドイツの哲学者ハイデッカーの「世人」にもある通り、似たような概念はあるにはあるが、忖度文化、根回し文化といったところまで、組織文化に浸透し精緻化しているのは日本らしい。
ただ、忖度が行き過ぎているとも言える。何しろ「場の空気」が権威者なので、関係者が多く、合意形成にも労力がかかる。実質的な決定者が不在なので、疑問があっても直接確認することはできず、下から忖度で仮説をぶつけて確認することになる。これでは、大胆な戦略転換は困難だし、スピード感は欠如するし、実務者は長時間労働となり、疲弊する。出る杭も、挑戦者もでない。
一方、欧米を始めとする一神教の世界は、今の変革の時代に強い。一神教は、その人と神との直接契約、誓いである。だから、周囲の人が何と言おうと、神との契約に反しないと自分自身が納得するならば、自分の信じる道に進むだけであり、むしろ義務である。自己存在の絶対性の濃度が高い。忖度文化の我々よりも、トライ&エラーの時代には合っている。
然は然りながら、我々は「和」の国、何であれチームワークを大切にするのだから、これを活かし、多様性のチームワークへ、とバージョンアップしたい。但し、一神教の強さに負けぬ為には、雰囲気を超えて、ビジョンに向けた使命感を強く持つことが必要だ。
明治後にも西洋近代思想の吸収、昭和にもアニメ文化でソフトパワーを創造してきた。エンターテイメント、ソフトパワーは、とても重要である。これなしに、世界の一般の人々に、我々の価値観は影響力を以て伝わらないだろう。日本は歴史的にも、外来文化を取り込む柔軟性、そして国風化することが得意だ。2000年もの時間をかけて、多様で多層に融合した精神文化の形成は世界的にもユニークな存在と言える。
強さと優しさの両立には、相互理解と相手に対する敬意、世界への慈愛が根底となる。自我が世界と一体となり、「道」を追求し、チームワークを重んじる日本独特の価値観は、例えば人生100年立国シナリオにおいても、他国には真似できない差別化された強みになり得るのではなかろうか。他の戦略を取ったとしても、差別化の源泉になり得る価値観と思う。
6.迷える羊はハードボイルドに「道」を目指す
価値観の再構築にあたり、ハードボイルドをキーワードに考察を続けてきた。根底は、自我と世界を一体的に認識して、他者を我が事と捉え、自らを高める為に技を自立的に究めようとする「道」の美学となりそうだ。日本文化が育くんできた「無我自由の境地」とも呼ぶべきか、やはり新しい価値観でもベースとなる。僕らは、時代や環境に合わせて、これを磨き続けていくのだろう。
ここで今までの考察を振り返ってみると、強く、優しく、すなわちハードボイルドに、そして豊かに生きていくには、次のような課題に纏めることが出来そうだ。
(1)日本の歴史と文化を再認識し、日本文化の包容力を磨く。社会は、弱者と敗者に対して精神的、経済的に配慮する。個人は、日本の歴史・文化を学び、自らを高め、自我と世界が一体化する日本文化を体現し、よって日本の文化的魅力を高める。そうすれば、自ずと、誰も取り残さない世界を目指すことになる。単純な個人主義と競争主義には限界がきており、価値観の更新が必要だ。そして、多様性の確保と人手不足の対応には、外国人と異文化を受け入れ、取り込むことが避けられないだろう。多様性に対する包容力は、現代の日本文化が克服すべき課題である。
(2)挑戦し、応援し、誰一人取り残さない社会を目指すことに使命感を持つ。そのような社会作りには、弱者、敗者を包む広く寛容で理性的な精神が土台として必要。日本文化と馴染みのいい精神であり、日本文化の活かしどころ。今、ここで、具現化すべき文化と意識の形ではなかろうか。そして、海外に負けぬ国際競争力ある社会作りには、空気に流され勝ちな僕らは、使命として挑戦する位の邁進する力が必要だろう。
(3)社会は戦略的な枠組みを設定し、個人はそれを活用し、社会発展に向け個性を自由に発揮する。VUCAの時代だ。例外もあろうが、高齢者が成功体験を自己否定して、技術革新にキャッチアップし、トライ&エラーで社会を再構築するのも難しいと思う。技術が超高速に進歩する時代、技術とSDGsを理解する現役世代が主役となる。社会は戦略を策定の上、推進を支援する使い勝手の良い制度を整備する。個人はそれを気軽に活用し、個性を発揮して働き甲斐を回復するとともに、雨後のタケノコのように、革新的なソリューションを社会に提案する。そして、淘汰、収斂、救済を経て、社会は強く優しく進化する。挑戦した敗者には敬意を表するべきだ。
(4)人生100年時代、世代間や男女間の役割分担も変化し、人生モデルも変化することを認識する。現役時代は果敢に社会にソリューションを提供し、現役卒業後は、世の中をよく観察して、現役世代の発想に耳を傾け、エンジェルとして、見極め、消費や投資を通じて応援する。経済的支援以外でも、助言であったり、共同体の維持活動であったり、支援、応援のニーズは様々にある。また、多様性によるイノベーションや労働力維持には、女性の社会参画、活躍も不可欠だ。男女間の役割分担も変化せざるえない。新しい家族像、新しい働き方を探っていくことになる。
最後に。どのような社会を目指すか、国民や共同体のコンセンサスも必要であろう。思想、哲学、ビジョンの裏付けがない行動には品がない。以上述べてきたことは、一つの仮説に過ぎず、他の考え方があって当然だ。但し、国力に限界がある中で、選択と集中は避けられない。針路選択のデッドラインもそろそろ近づいている。民主主義においては意見を集約をしないと組織は動かないが、多様な意見の収斂は大変な根気と労力が必要だ。まどろっこしく、焦りを感じるかもしれない。でも、第二次世界大戦の英国首相チャーチルが指摘するように、民主主義は最低のシステムだが、他よりはマシなのだ。青臭いかもしれないが、社会の構成員として、公正に、合理的に、建設的に議論していきたいものだ。僕らが民主主義の市民=シチズンであることを再認識すべき時が来ているかもしれない。
課題に対する正解は、人それぞれだろう。無我自由の境地に立って、各自で、挑み続け、磨き続けることで、僕らは、自由と主体性を回復する。一方、外国人を含めて我々の多様性が纏まる為には、ユニバーサルな規範を持つ日本文化に進化する必要がある。そのようにバージョンアップした日本文化は、日本の社会や組織、国力を刷新していくに違いない。
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そう、そう、冒頭の「今時」の違和感。夢もって仕事し、何歳になっても社会参画して生きる、そんな未来の選択肢が、僕らには未だ残されているのではなかろうか。今時は、それを早々と放棄しているように思える、そんな苛立ちだったかもしれない。
えっ?、じゃあ、今、自分にできること?
まずは似合わなくても、ハードボイドに見栄を張ってみることから始めます。
以上です。最後まで辛抱強くお付き合い頂いた方々には感謝申し上げます、有り難うございました。
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