内省…(羞恥心と劣等感)

羞恥心と劣等感、内省のために思いつくものをつらつらと綴ります。あちこち話が飛んで読みづらいかもしれませんが、ご了承下さい。

幼稚園の卒園のときにもらった記念の小さなアルバムに保育士さんから「〇〇くんは将来はお医者さんか科学者かな」みたいなコメントを書いてもらったのを大人になって見つけた。

酔っ払った母親の妄想だったんだろうけれど、ぼくがもっと小さい頃に優秀だからテレビ局が取材に来たとも何度も聞いた。

ぼくは自分の居場所がないからか本を読むのがその頃は好きで、年子の兄がいるけれど親戚がぼくのために世界の偉人の伝記集とか児童文学全集とか与えられてた。

そうしたぼくの素質は親戚との集いなどでは母親の自尊心を満たすアクセサリーとして役に立つけれど、母親との関係性ではそれが母親の嫉妬心を刺激した。

(そういえば、シラフの親から一度も褒められたことはなかったなぁ。いわゆる一流大学に受かったときも、私が神様に祈ったからと手柄をすべて横取りされた。)

兄と兄弟喧嘩をする際には怒られるのは常にぼくだった。「お兄ちゃんに向かって何をするの!?」と。

小学校の友人達と話していた時に、「あんたはお兄ちゃんなんだから…」と我慢を強いられるという話を何人にも聞いて、なんでうちは違うんだろうと疑問に思っていた。

昔からぼくは一人で遊ぶのが好きで、自転車に乗れるようになる前からいろんなところへ行った。一番好きな遊びがわざと知らない道へ入っていって道に迷う。そこからスタートしてなんとか家に帰ってくるという小さな冒険が好きだった。

小学低学年の頃に近所に古本回収で出されていた本の中にギネスブックがあった、しばらくその世界に魅了されていた。その本の中には常識を超えようとする不思議でびっくりな人達が大勢いて、窮屈に感じられる世の中でも本当はもっともっと大きな世界があるんだということを知った。

ギネスブックを母親に見つかると捨てられるというのはわかって隠していたんだけれども、自分の部屋もなく隠す場所も限られているので結局見つかり捨てられた。母親の定めるぼくの枠組みとギネスブックは対極にあるものだったんだろう。

母親の視点で見るとぼくは意気地のない弱虫で何も出来ない子というメッセージを入れられていた。

小学低学年の頃に近所に初めてロッテリアが出来て母親と兄と3人で食べに行った時、注文してみたいと思ったんだけれど、母親に「あんたは意気地なしだから注文なんて出来ないでしょ」と冷たく言われ身体が凍りついた感覚はすごく覚えている。

また同じ頃に夏祭りで近所の神社を舞台に肝試しがあったときも、「あんたは意気地のない弱虫だから肝試しなんて行けるわけないよね」と言われ全身に冷水を浴びせかけられたような思いをしたのも覚えている。

なんかその頃から、「できる自分」を母親に見せるのがはばかれて「出来ない自分」を演じるようになった。自分が何を感じているかではなくて、他人にどう思われているのかを軸に行動するようになった気がする。

家に誰もいない時に電話がかかってきても「あんたは一人で電話も取れない情けない子」だから居留守を使い、「あんたは一人でお使いもいけない子」だから買い物にも行かず…そのイメージを守るのに必死だった。

電話に関しては中学生になっても続いてた。連絡網でクラスメイトから何か回ってきた時に次の人に回さないといけないんだけれど、「電話すら出来ない子」を維持するために母親がお風呂に入った時を見計らって電話してた。

小学高学年の頃に裁縫箱を図書館に忘れてしまった時があって、後日先生がクラスのみんなに忘れた人いないか?と聞いてきた。「出来ない子」のイメージの呪縛かぼくは名乗り出ることが出来なかった。

もちろん裁縫箱は必要だから兄のを借りることになるんだけど、裁縫箱のデザインがみんなの持っているものとは異なり、いつ誰に指摘されるのかといつもビクビクしていた。

「できる自分」が母親に嫉妬されているのにどこかで気づいていたんだと思う。小学生高学年で成績がオール3だったことがあってすごく嬉しかったのを覚えている。「ようやくこれで普通になれるんだ」って。でも結局「できない自分」が広がるだけだったけど。

高校に入学してクラスの中の仲が良い友人がみんなテニスをやっていたので、自分もテニス部に入りたいと思ったけど、その時に一番最初に思い浮かんだのが「母親がどう思うか」だった。で、結局テニスを諦めた。

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話が少しそれるけれど、母親が新興宗教にはまっていていつも家で仏壇の前で念仏を唱えている。それを友達に知られるのが嫌で友人間でうちに遊びに行くという話になりそうになると必死になって嘘をでっち上げて回避していた。それがだめな場合には玄関からぼくの部屋に一直線に行くように皆を誘導していた。バレるんじゃないかとドキドキしながら。

子供がよくやるいくつかの選択肢から選ぶ時に「どれにしようかな、天の神様の言う通り」も母親の信仰する神様に合わせて「どれにしようかな、〇〇◯◯◯様の言う通り」と心のなかで唱えていて、今思えば明らかに考えすぎなんだけど、神様と〇〇◯◯◯様との文字数の違いが友達にバレるんじゃないかと気が気でなかった。

宗教隠すべき問題、ぼくの根幹まで巣食っていた。高校の同級生で自宅が全焼した仲良かった奴がいたんだけど、その彼が言うには火事でその宗教で最も大事なものとされるものも焼けてしまったらしい。それを信者である彼のお母さんが教団に求めたら、それが欲しかったら新しい信者を数名獲得してこいと言われたと(彼自身は信者ではなかった)。ものすごくやるせない気持ちになる彼を目の前にして、実はぼくの母親も同じ宗教をやっているんだと言えなかった。またとない絶好のカミングアウトのタイミングなのに…

もしそれが伝えられていたら、それまでの宗教にまつわる様々な重荷がおろせたのかもしれない。宗教にはまっていく母親を身近で見てきた子供同士でたくさん共感することができただろう。でも言えなかった。「へぇ、そうなんだ…」としか言ってあげられなかった。勇気がなかったという見方もあるけれど、それだけ家族の秘密は誰にも知られてはいけないものだった。家族の恥は自分の恥。そう感じていた。

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中学生になり部活に入って、彼らの中でなんか言い間違いに対して魔女狩りのようなことをすることが流行った時期があった。例えば「カッパを着る」「傘をさす」がごっちゃになって「傘を着る」みたいなことを言うと、そうなると武将の首でも取ったように喜び囃し立てる。ぼくだけがターゲット担ったわけでもなく仲間内全員が囃し立て、囃し立てられる立場だったんだけど、周囲にどう見られるかへの意識がどんどん膨らんでいった。

羞恥心と劣等感、ぼくの中でそれを植え付けるビッグイベントがいくつかあった。内省のために重いけど書いてきます。


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中学3年生の修学旅行。場所は京都と奈良。確か二日目だったと思うけど、バス移動の最中にお腹の調子がおかしくなってきた。前日に食べた何かにあったったのかもしれない。何度も襲ってくる便意を肛門をキュッと締めてやり過ごす。そんな時にクラスの中のピエロ的な役割の◯田くんが大きな声で「先生、うんち漏れちゃうからバス止めて!」と叫ぶ。

「◯田!何やってんだよ!」「まじかよww」とバスの中は大爆笑。でも先生はバスの運転手にお願いして近くのトイレがありそうな場所でバスを止めてもらう。

ぼくも一緒にバスを降りてトイレに行きたいけれど、そんなこと言えるはずがない。

別記事で罪悪感の話を書いたけれども、価値のない自分のために便宜を図ってもらうなんてありえないし、◯田くんのように皆の笑いに耐えられるわけもない。

スッキリした顔をした◯田くんが戻ってバスは再出発。お腹の便意の乱高下をひたすら耐える。

しばらくしてようやく目的地である平等院についた。

ようやくトイレに行けると思ってバスを降りるんだけど、でっかいお寺というか観光地だから駐車場からトイレが遠いんだよねw。

お尻に刺激を与えない程度に早足でトイレに向かい、冷や汗をたらしながらトイレに到着。ブースに入り学ランのズボンを下ろそうとした瞬間、力尽きた。

学ランズボンに下痢うんちべったり漏らした。

正直、その後のことはほとんど記憶にない。

人がいない間をねらって洗面所でズボンとパンツを洗ったのか、もしくはそれも人に見つかる恐怖で出来ず、トイレの水を流して一応きれいになった便器の中の水で洗ったのか…多分後者だろうな。

どちらだったにしても、ぼくはその後グループ行動に戻る。そして恐怖の時間が始まる。

修学旅行の移動はたしか京都はバス行動、奈良に行ったらグループ行動だったと思う。なので簡易的に水で洗ったとは言うもののうんちを漏らしたズボンで集団でバスの中に閉じ込められた状態。

当然、ズボンは濡れていて少し臭う。

もうバスの中のぼくはいつ誰かに何かを言われるのかが怖くて仕方がない。強制的に全身のアンテナは外部に向けて張られてビクビクしている。

そんな時にぼくの隣りに座っていた◯部くんが「なんか、臭くねえ?」と言い出す。「なにが?」と内心パニックになりながらも冷静を装いなんとか誤魔化す。

そうなるとアンテナの感度が100倍くらいに上がって、バスの端っこでビクッと動いた人がぼくの臭いに気づいたんじゃないかとか、どこかで聞こえる笑い声がぼくのことを笑っているのではとすべてがぼくのことを話しているように感じられる。

なんとか誤魔化しきって、その日の予定を終えホテルに戻る。もちろん自分の行為が恥ずかしすぎて先生に学ランズボンのクリーニングなんてお願いできないから、人のいない時間帯を見計らって、洗面所の手洗い用石鹸を使って洗うので精一杯。

その後の修学旅行の記憶は何もない。

臭いがそこまで強くなかったのか、◯部くん以外に指摘されることもなく皆に囃し立てられることはなかったけれども、それでも十分トラウマ的な出来事だった。

その数年後、地元の高校に入り2年生になった頃、中学も別だった同級生が突然ぼくに向かって「カレーの王子様」と言ってきた。

瞬時に頭の中で理解した。「カレー=うんち」。身体が膠着し縮みあがった。

サッカー部だった彼の後輩としてぼくと同じ中学出身の人が入ってきたのだろう、そいつからぼくがうんちを漏らしたことを聞いたんだろうと。

今となっては本当のことは何もわからないけれど、その時のぼくには「何それ?」と聞き出すだけの気持ちはなかった。ただただ自分の過去や自分自身から逃げ出すのが精一杯だった。幸いなことにその同級生もクラス中に言いふらすこともなかったけれども、忘れた頃に「カレーの王子様」と呼ばれることはしばらく続いた。

これ後日談があって、自分の過去を振り返っている時にこの負の記憶から抜け出そうと安全と思える場所でうんち漏らしの話をしたことがある。

そしたら何人かの女性がその後に「実は私も」と言ってきてくれたことがあった。「辛かったよね!!」とうんち漏らしで盛り上がった。笑い話になった。そんな恥ずべき話題に対して共感しあえることが不思議だった。

そこで勇気を得たのか、同窓会で中学のクラスメイトと会う機会が30代にあった。二次会のカラオケボックスでぼくの歌を歌う順番になった時に、マイクを持って言った。「実は修学旅行の時にうんこ漏らしました。バスの中で臭かったとしたらぼくが原因です!」と告白した。

ぼくの中ではそれこそ数年前までは墓場まで持っていくつもりの話題だった。それを伝えたら世界がガラガラと崩れるかもしれないと思っていた。みんなに嘲笑されると信じていた。

告白した瞬間、「マジで!!? クソ漏らしたの!!」と全員が一瞬大きく盛り上がった。でも「気づかなかった」「知らなかった」と1分も経たずにその盛り上がりは終わった。誰もその後にその話に触れることはなかった。

完全に拍子抜けした。今までぼくが恐れていた世界、ぼくの本当の姿を見せたらぼくが壊れてしまうと思っていた世界って、なんなんだ?と思い始めた。

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二浪して入ったいわゆる一流大学。語学系ということもあり周りは現役で入った女子が多い。それも帰国子女が多くて受験勉強でなんとか英語の成績を上げた英語だけが取り柄のぼくと違い、彼らはベースとして普通に英語が話せる。語学系なので座学で教授の板書をひたすらノートに書いていくよりはペアを組んで会話する機会も多く、その都度自分の劣等感が刺激されていく。

今から思えばもちろん帰国子女並の英語力はないけど、十分大学生としての英語力はあったんだけど、周りからの視線が怖すぎて小さなミスを自ら攻撃して致命傷にしてたよね。

なんとかこらえながらもやっていたけれど、7月の終わりにサークルが終わり地元の駅から自転車で帰る際に事件は起きた。

雨が降っていたので傘をさしながら自転車に乗っていたんだけれど、人通りの少ない暗い夜道で、気がついたら後ろから高校生?と思われる二人組が自転車でぼくのことを追いかけているのに気づいた。持っていた傘を投げつけて逃げようと自転車を思いっきり踏み込んだんだけど、運の悪いことに確かもう5~6年毎日乗り続けている自転車だったからチェーンが外れてしまった。結局二人につかまり、側の雑木林に連れ込まれてボコボコに殴り蹴り飛ばされた。

ぼくは殴られる際に「うぅ~」と弱々しい声を上げて、抵抗したことに激昂する彼らに土下座をして謝り、財布の中にあった5千円を渡した。

ずぶ濡れで泥だらけの姿で近所の公衆電話から警察に電話した。

駅前にある交番へ連れて行かれた。

帰宅するサラリーマンや学生が何人も交番の横を覗き込んで通り過ぎる中、警察官3人がぼくの対応をした。

話を一通りした後、「なんでやり返さなかったの?」一人の警察官が言った。

「急だったし殴られて意気消沈してしまって」とヘラヘラしながら答えた。

調書を取る際にぼくの通う学校の名前も出したかと思う。

「へぇ~、頭いいんじゃない。将来さ、こういう奴ら取り締まってよ」と一人の警察官が言った。

「いやぁ、そんな頭良くないですからぁ」とぼくはただヘラヘラするしかなかった。

今の感覚から言えば警察官の態度はセカンドレイプ的なものなんだろうけれど、当時のぼくは自分が情けなくて情けなくて仕方なかった。

その後、帰宅した玄関で母親が出てきてずぶ濡れ泥だらけのぼくを見て「どうしたの?」と聞いた。

「転んだ」とだけ言って自分の部屋へ入っていった。

その夜にぼくは暴行にあった記憶を消した。あまりに辛すぎたから。

そして次の日にぼくはその交番に立ち寄っている。

「財布落としたんですけど?」と。

前の日に対応した警察官がいたと思うんだけど、きょとんとした表情をしていたことを覚えている。

その後、10年近くこの記憶は完全に抹消していた。

というのは半分ウソ。消えない。消えるはずはない。もちろん意識に上らせることはないんだけれども、どこかで知っている。エネルギーを使って抑え込んでいるだけ。例えるならば新聞のどこかのページに暴行のことが書かれている一行がある。でもそのページを間違って開かないように常に気を張って監視している。そんな自分がいることも気づいているんだけど気づいていないふりをしている。常に、毎日、24時間、そこにいる。

記憶が出てきたのはまだFAPに出会う前だったから、自分の中で処理するのにだいぶ時間がかかった。

このエピソードも後日談があって、過去を振り返りの際に安全な場所で話をしていた時に、ひとつ思い出すことがあった。

ぼくは両親や兄から殴られる際に、ダメージが大きいと思わせるためにわざと大きな声で痛がった後に声を落として弱々しくうめき声を出すことがあった。加害者側へ十分攻撃をしたと思わせるように。子供の頃はそれが通用した。それで両親や兄の攻撃を最小限で回避していた。そのスキルを暴行受けた際にも繰返していたことに気がついた。

どんなにかっこ悪くても、自分の何倍も大きな大人に対して体力ではかなわない小さな子供の頃に身に着けたサバイバルスキル。

暴行を受けた際に土下座したのも屈辱でしかなかったけれども、結果的にそれで二人は満足したのかその場を後にした。

そしてぼくは精神的にはズタボロだけれども、身体的には大して怪我をすることもなかった。

それに気づけた時に情けない人間の屈辱話が、そんな状況下でも最善を選択して生き抜いた人間のサバイバーとしての物語に変わった。

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大学1年の夏に暴行事件があって、それまでなんとか持ちこたえていた自己肯定感がさらに下がって授業に出ることが辛くなってきた。「出来ないこと」「間違えること」が恥ずかしくて、それらのミスが自分の存在を完全に否定されたような気持ちになり、それから逃れるために授業に出なくなる。

同時期にサークルで合宿の係を任命される。「みんなのため」に合宿の準備をしたり奉仕することが喜びとなってくる。学校には行くけれども授業には出ない。サークルに参加しその後に皆で酒を飲みに行くという毎日。

授業に出ないから1年の必修科目もろくに単位を取れず、その現実を学年末に成績表として渡されるんだけれども、そんな自分を直視するのが怖すぎて、完全に否認モード。先のことも考えられず、ただただ現実から逃げ続ける日々。

そんなこんなで3年生になった(うちの大学では単位は取らなくても進級はできた)。ぼくのサークルでは代表者を3年生から出すけれど、サークルの代表者に誰もなろうとしない。

ここまで現実を否認し続けてきたけれど、さすがにどこかでまずいと思っていたのでサークルから身を引いて勉強しようかと思っていたら、同学年の一番仲良かった奴から「代表になってよ。」の声があがる。

その彼はクラスを共有することはないけど同じ学科だったからぼくが単位を取っていないことは知っていたはず。けれどぼくは自分の単位が危ないという話は恥ずかしすぎてもちろん伝えられない。

その頃にはすでに「こんな自分でも必要とされる」「身を削ってでも誰かを喜ばせることができる」ことが快感という体質になっていたから、ここで心身入れ替えてサークルも授業もがんばると思ってサークル代表の選挙に出て選ばれた。

新体制で始まる春に1週間程合宿をするんだけど、その時にまた事件は起きた。多分いろんなプレッシャーがあっていっぱいいっぱいだったんだと思う。初日の夜にみんなで酒を飲んで、天気もよく海が近いので何人かで海まで散歩しビーチで酒を飲んだ。はっきり覚えていないけれど、そこからの帰りにみんなバラバラで歩いて宿に戻った。宿の部屋にこたつがあったのでそこに入って寝た。

次の日の朝、時計を見たら9時を過ぎていた。本来ならば8時に朝食でその日の練習予定を代表であるぼくが伝えなければいけない。で「やばいな~、副代表がやってくれたかな」とぼんやりとした頭ですでに始まっているだろう練習に行こうと起き上がると、部屋の様子がなんか違う。「あれ?こたつなんてあったっけ?」

部屋の窓から外を見渡すとうちの宿とは景色が違う。どうやら酔っ払って別の宿の部屋に勝手に入り込んで空いている部屋で寝ていたらしい。

現実がわかっていないけれどなんかしでかしてしまったことだけはわかるから逃げるようにその宿を後にし、自分の宿を目指して歩き始める。しばらく歩いていると、遠くの方から「あ!いたぁ!!」という声が聞こえる。

何人かがこちらに向かって走ってくる。そのうちの一人はぼくと一番中が良かった同期の奴。そいつも昨日一緒に飲んでたはずなんだけどね。で「うわぁ、酒臭いなぁ、でも無事で良かった」と言う。本心は逃げたくて逃げたくてどうしようもないんだけれど、彼に「辛いだろうけれど、代表なんだからしっかりしろよ」と言われ、なおさら逃げてしまいたくなる。皆に引きづられるように宿に歩いていくと警察官が立っている。どうやら朝になってぼくがいないということに気づいて捜索願を出そうとしていたらしい。

警察官に事情を説明し帰ってもらい、同期の彼と一緒にぼくが間違えて泊まっていた宿の別大学のサークルにも謝罪をしに行く。

それらをすべて終えて、自分の宿に戻り、グループに別れてやっていた練習に参加する。

皆、「心配したよ~」と冗談まじりで言ってくれるんだけれど、その優しがむしろ辛い。いっそ一発殴ってくれたほうが気分が楽になるのに。

夜になって全体で集まる練習があって、それが終わった後に70人近くの部員の前で土下座をして謝った。「代表なのにこんなバカなことをしてごめんなさい」と。

なんか、土下座人生だね。ぼくの人生w。

母親に土下座。暴行犯にも土下座。サークルのみんなに土下座。

今から思えば偽りの快感で親から入れられていたものとわかるんだけれど…とてつもなく変態な快感を入れられてたよね。

そんな状況で始まった3年生。気持ちでは授業もがんばるつもりだったんだけれど、当然うまくいくはずもない。

1年生で落とした必修科目は3年生で取ることになっていた。語学の授業なので周囲とのペアでの発表とか会話が中心。そんな中で出た授業にサークルの新入生が数名いることが発覚した。

サークルで偉そうにしている代表が新入生と一緒の授業を取っている。もうその事実が駄目だった。

自己肯定感がどん底で、それを虚像としてのプライドでカバーして自分を保っていたから、現実に直視するだけの力は残ってなかった。徐々にその授業に出なくなった。

このままじゃ駄目だという意識はあって、学校の学内カウンセリングを受けてみたこともあったけれど、1度で挫折した。小さな出来ることからやってみましょうとかいうスモールステップを推奨してきたんだけれど、もうその小さな現実ですら直視できなかった。

あまりに自分への自信がなくて、学校に通う際、最寄駅の階段に一番近い車両に乗っていたんだけれど、「俺はここの(一流)大学に通っているんだ。だから階段が近い車両を知っているんだ」という吹けば飛ぶよなホコリのようなプライドにしがみついて生きていた。ほんとタイムマシンがあるならば何も言わずにそんな自分をただただ抱きしめてあげたいよね。

ずーっと、ぎゅーっと。

こうして授業には出なくなったけれどサークルに参加するために毎日学校通うという奇妙な生活が始まった。

自分にとって都合の悪いことはすべて見ないようにしていたから、表面上はなんとかうまくやっていた。その結果、同じサークルで同学年の女の子に告白して付き合うことにもなった。でも、その期間は長くは続かなかった。

12月を過ぎてメインの活動も終わり、代表の座も下級生に譲り、まわりの同期が就職活動を始める中、ぼくは単位が全然取れていない現実と直面させられた。うちの大学では連続する期間に規定の単位数が取れていないと強制的に退学という決まりがあって、ぼくはそれに当てはまっていた。教授達数名との面談の場に行くと、日本人の学部長と外国人教授が3人。彼らが日本語&英語で攻め立てる。救済の態度ではなくてあくまでも弾劾裁判。ぼくにはなにも言えなかった。そして後日4年生にはなれず退学が決まった。学校からの連絡が直接親にもいったみたいで、親は当然呆れていた。

数カ月間バイト先の仲間の家に泊まり込み、家に帰らなかった。もちろんそんな状況を彼女に伝えてもおらず、しばらく連絡のないのを心配した彼女はぼくの家に電話をして事情を知った。二人の関係性は当然自然消滅した(関係性とは言うものの自分に自信なんてこれっぽっちもないから彼女の身体に触れることすらなかった)。彼女とは彼女が卒業するまでほとんど口を聞くことはなかった。

そんな状況でもぼくは逃げ続けた。サークルだけが自分の居場所と感じていたから退学処分になっているのに昼間はバイトして夜はサークルに4年生として参加した。一度下級生から「何で学生でもないのに参加しているんですか?」と問題視されたけれども同期達がなだめてくれた。一緒にいつも飲んでいた新しい代表には応援してもらえたけど、他の下級生の冷ややかな軽蔑したような表情が突き刺さった。

そして4年目も終わった。皆が卒業していく中、復学するというチャンスが一度あった。退学から1年後に学業に専念する意志と改善状況が見られることを教授達との面談で認められるのであれば復学できるというものだった。

その面談の約束は取り付けていたものの、もうどうでも良かった。前日にしこたま酒を飲んで明日起きられたら行こうと決めた。もちろん翌日起きた頃には時間をとうに過ぎていた。

そして完全に大学から離れた。大学の友人達も一流企業に就職し、しばらくは連絡を取っていたけれども自分が情けなくて会うことができなくなった。

近所のプレハブ建築の工場に務め始めた。日給月給のアルバイト。仕事をうまくやっていたらひょっとしたら社員に引き上げてくれるかなと期待していたけれど、もちろんそんなことはなかった。

3年程その仕事を続け、なんとかそんな生活を脱しようと新聞広告で見つけたアメリカの小中学校で日本語の先生のまねごとが出来るインターンシップに応募した。別に資格とかなにもいらず、トータルで100万円近く払えば誰でも参加できるものだったと思う。

アメリカには1年近くいたけれど、その生活はとても楽しかった。毎日子供たち(幼稚園児~小学6年生)の前で簡単な日本語や日本文化を教えて回った。子供たちもすぐに懐いてくれて、誰とも話すことのない数年間から見たら別世界だった。初めのホームステイ先のお母さんが鬱っぽい人で、その影響をもろに受けたけれど、周りの何人もの人達がぼくを救い出してくれてホームステイ先として受け入れてくれた。

生まれて初めて人のぬくもりというものに出会った。学校の先生だったある女性とはホームステイ先で何時間も語った。時には朝まで語ったこともあった。ぼくのことを東洋から来た天使とまで言ってくれた。

ただ、ぼくは大学を卒業したという嘘をついていたから、地元の大学で日本語教授をやっている人を紹介してあげると言われても、実は大学中退していてとは言い出せず、いつもやましい気持ちがつきまとっていた。

さらに、初めて人に優しくされると心のどっかで「もっと!もっと!」と渇望する自分がいて、それがとても卑しく思えていた。

ぼくのベースが罪悪感や劣等感だったから、自然と人から受ける優しさも「ぼくには優しさを受けるだけの価値がない。本当のぼくを知らないから優しくしてくれるんだ。本当のぼくを知ったら嫌われる。」「騙してしまってごめんなさい」という罪悪感の方が強かった。

インターンシップを終えて日本に帰国し実家に戻った。また前の生活が始まった。工場勤務で週末酒を浴びる日々。

語り合った先生から何度か手紙が来たけれど、騙してしまった罪悪感からか手紙も封を切れず、そのうち連絡が来なくなった。

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話はちょっとそれるけれど、帰国後自分に自信をつければ何かが変わると思い、近所の空手道場に通うようになった。道場師範は過去にいくつもの大会で優勝したことがあるような人で賞状が至るところに飾ってある。中東やパキスタンの軍でも空手を教えたことがあるようでその写真も飾ってある。世界の数カ所にはその道場の支部もある。初めはすごい人だなと思っていた。

でも半年ほど通っていたんだけれど、あることに気づいた。師範や師範代の何人かは道場の中ではすごい強そうなんだけれど、練習が終わってぼくと普通に話をしている時には目をそらすんだ。

アメリカに行っていてお互い目を直視して話すのに慣れていたから普通にぼくはそうしていたんだけれど、その師範は何か気まずそうに視線をそらす。

なんかその瞬間、ぼくの求めている強さってなんなんだという疑問が湧いた。黒帯を取るのに何年もかかるんだろうけれど、その結果として身につく強さはぼくの求めている強さじゃないって気づいた。そしたら空手熱が冷めてその後その道場を辞めた。

(空手やっている人が皆そういう人だと一般化する意図はもちろんありません。ぼくが出会った人に対して個人的に感じただけなのであしからず)

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別の記事に書いたけれど、そんな時期だった。王様のブランチで紹介された「永遠の仔」を読んだのは。

それまでの人生が毒親の影響を受けていたと知り、罪悪感でコントロールされてきたことに気付いた時に母親への怒りが爆発した。
(植え付けられた罪悪感については…)


初めは母親におもちゃにされてきたぼく自身を殺してしまうことが母親への最良の復習だと思った。でもしばらくして母親を殺して自分も死のうと決めた。ある日、母親に向かって包丁を向けたことがあった。

「きゃー!」と言って母親は逃げた。

拍子抜けだった。

昔、母親に死ぬ死ぬ詐欺でさんざん痛めつけられてきたから、命に真剣に向き合うだけの度胸はあるかと思っていた。

でも、「きゃー!」と言って母親は逃げた。

なんか、馬鹿らしくなった。

ちょうどその頃、サークルで仲良かった同期の友人が結婚することが決まって、数年ぶりに電話をしてきた。友人代表としてのスピーチを頼まれた。

スピーチ頼んだ友人が殺人犯だったら申し訳ないよなと母親を殺めることはやめた。そして1週間程して一人暮らしを初めた。


ここまで一気に書いてきてちょっと頭がグワングワンするけれど、だいぶ内省できたように感じる。

ぼくが感じてきた劣等感や恥の感覚はぼく自身のものではなかった。すべて母親に入れられてきたものだった。

最近、TOEICを2年ぶりに受けた。勤務先でもらう資格手当の延長のために。PodcastやYoutubeを見るくらいで英語の勉強は特にしなかった。結果は950程だった。一般的にはすごい範疇なんだろうけれど、未だにぼくは英語が苦手という意識がある。それもすべて母親に入れられた感覚。

友人が誰もおらず、常に孤独でそれをお酒と宗教で誤魔化して本当は中卒なのに高卒と嘘を付き続け、ホステスとして働いていた過去を否定し認められず…そんな母親自身の劣等感と羞恥心。

目の前に母親をイメージして、もらった羞恥心と劣等感を持ち主に返す。

「ぼくがこの世にいることに対して誰一人して喜んでもらえることはなかった。人にとって迷惑な存在でしか無かった。何もできない意気地なしで臆病者のぼくは生きていくことが迷惑をかけるようで辛かった。苦しかった。

ぼくが生きていることでお母さんに迷惑をかけて悲しませてしまった。

ずっとぼくはお母さんを満足させることができない自分が辛かった。何をやっても何をやってもお母さんは喜んでくれなかった。情けなかった。悲しかった。でもそこから抜け出すことができないことが辛かった。

ぼくはお母さんに褒めてほしかった。一言でいいから褒めてほしかった。すごいねって。良くやっているねって。そこにいるだけでいいんだよって。そういって抱きしめてほしかった。ただただ抱きしめてもらいたかった。」



ぼくと母親の間には支配関係しかなかったけれど、ようやく同じ土俵に立てたような気がする。



本編バージョンも大好きです。
















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