「センスとはなにか」


センスとは、局地的な知識である

センスの反対語は、教養である

教養とは、広範な知識である

現代は、教養の時代である

みんなが知るべき知識が、あらかじめ決まっている

世界史、戦争史、進化論、文化人類学、リベラリズム、伝統‥etc

これらの知識を知っていないと「無教養」とみなされる

教養とは、学校教育的なものであり、客観的なものである

そして、学校教育的なものは、つまらないものである。センスがないものである。

局地的な専門化こそが、センスである。

センスがある人というのは、「みんなが知らないことを知っている」からセンスがあるのである。

センスがない人というのは、「みんなが知っていることしか知らない」からセンスがないのである。

では、センスがある人になるにはどうすればいいのか?個性的で面白い人間になるにはどうすればいいのか。

簡単だ

「自分の興味のあることに没頭すること」

これがセンスある人になる秘訣である。

「好み」というのは主観的なものである。

3歳児は自分の心の赴くままに絵を描く

「デッサン能力がないとか、美術史を知らないと思われるのではないか」という無駄な配慮が一切ない

3歳児の絵は究極的に主観的である。

センスがない人は、例えば物書きなら「俺はイギリス文学には詳しいが、アメリカ文学を知らない。これでは無教養に思われるのではないか。よしアメリカ文学を研究しよう」
などと思って、自分の興味のない教養を身につけて、センスを失くしてしまう。

センスとは、粗っぽく言えば、無知のことである。

そして、個性とは無知のことである。

才能とは無知のことである。

現代社会は、教養主義の時代である。「みんなが知っていることを知らないとバカにされる」時代である。

「あいつは小説家のくせに、ファウストの一行も、森鴎外の舞姫も読んだことがないらしい」
あなたはそういった批判にびくびく怯えている。

私に言えるのは、もし興味を持てないならば
ファウストの一行も、森鴎外の舞姫も読むべきではない。ということだ。

無知こそ力なのだ。無知こそセンスなのだ。

教養主義の罠にかかってはいけない。

あなたがもし、バカだと思われるのを恐れてファウストや舞姫を読んでしまったら、あなたは教養人にはなれるかもしれないが、素晴らしいセンスを失うのだ。

自分の心の赴くままに本を読むといい。

そうすれば、あなたはセンスある人になれるだろう。

教養なんていうものは、誰でも身につけられる。

センスはあなただけのものだ。

人は一度知ってしまったことを忘れることができない。

あなたは知らないことで、センスを磨くことができるのだ。

あなたが好きな小説を読め。

あなたが好きな人の話を聞け。

興味のないことをするのは、センスのない人に任せておけ。

あなたは小説家なのだから、無知を貫き通して、教養を軽蔑するべきだ。

自分の知らないことを軽蔑するべきなのだ。

独断的であることが、天才性なのだ。

無知こそ天才なのだ。

子供は誰しも天才である。

それが客観性と教養主義によって、凡庸な人間に成り下がる。

客観性を排せ!

なぜ学校の勉強や、論文が面白くないかと言えば

学校教育と論文は、客観性を必要とするからだ。

こうしてつまらない教養人が完成する。  

完全な客観性などあり得ない。

芸術に客観性など害でしかない。

あなたの局地的な興味を愛せ

教養主義を軽蔑しろ

そうして君は、天才になる。

センスある人になるのだ。

無知こそセンス

独断こそ天才性

あなたの無知を、私は愛する

あなたの無知を世界に見せてくれ

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