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#3,息子の幼少時代(デンマーク障害児福祉制度にお世話になりはじめる)

「もう絶対に学校には行かない!!!」息子が学校という組織に属し始めてから一体何回この言葉を聞いただろうか。

息子は現在4校目の学校に通っている(週に2回だけ)。これには色々とこの国ならではの事情がある。そのことについて少しずつ年代を追って書いてみようと思う。

幼稚園~小学0年生
私の住んでいる国では小学0年生というものが存在している(幼稚園クラスとも呼ぶ)。年齢はだいたい6歳から。だいたいと書いたのは、幼稚園の方でその子が小学0年生に進学しても大丈夫かどうかを判断してくれて(もちろん親と相談の上)、まだもう少し発達を待った方がいい子については、1年遅らせたりすることも良くあるからだ。

私の息子は保育園、幼稚園ともに行き渋りはかなりひどく、時には無理やり連れて行く日もあったものの、行ってしまえばみんなと楽しく遊べていた(今思えば小さな子供間のトラブルは多々あったが)。

とはいえ、迎えに行って家に帰るとメルトダウン(※ASDの人で起こるストレス許容量を超えた時の脳の混乱状態。回りとは意思疎通がはかれないほどに泣き叫んだり、暴れたりするが、本人は後で覚えていないことも多い)を起こす日が増えてきて、また家でのこだわりも強かったために、私自身は3歳頃より、この子は何か発達の問題があるとの確信は持っていた。

そのため、何度も保育士に相談したのだが、決まって答えはいつも一緒。「彼は園に来てしまえばとても楽しく遊べている」。そして、私が迎えに行くと、今度は帰るのを嫌がって泣くほどだ(今となれば、これも一つのアクティビティから次に移るのが難しい特性からだったとわかる)。

そんな毎日だったので、私は自分の子育てに自信が持てなく、また日々の言語の壁、システムの壁に心をすり減らし、鬱っぽく過ごす日々が続いていた。

そんな5歳のある日、幼稚園に行くのが益々難しくなってきた頃、園長先生との面談があった。幼稚園側でも息子のこだわりや癇癪の強さは認識しており、一度専門家に見てもらおうという話しになった。

そして、市から要請された発達専門の保育士が幼稚園での生活、帰宅後の彼の動向の視察にやってきてくれた。

そんな時に限って息子は機嫌良く遊び、家でも機嫌よくおやつを食べる姿を見せる。私が母親として専門家にどんな指導を受けたのかは、今となっては覚えていないが、やはりその時点でも彼の発達障害は疑われなかった。

私たち夫婦は、ホームドクターに相談を持ち掛けることにした。ホームドクターは息子が産まれた時からみてくれているのでとても頼りになる。すぐに児童精神科への紹介状を書いてくれた。

住んでいる街にある児童精神科へは2回ほど通っただろうか。。。彼女の診断は、今この子の状態では診断がつかないので、もう少し大きくなるまで様子を見ましょうとのことだった。

少しここで、この国の福祉制度、および公的システムについてお伝えしてみよう。私の住んでいるデンマークは北欧の他国と同様に言わずも知れた福祉国家。毎月給料の半分近くの高い税金を支払い(もちろん所得によって差はある)、医療費、および学費は大学まで全て無料。しかも、大学生活では返済不要の奨学資金制度まである。

私はここに住んでもうすぐ15年になるが、自分自身の闘病(またこれについては、いつか書こうと思う)そして学業(語学学校から始まり高校卒業資格、医療系の学校に進学を果たし勉強し始めた1年後に癌が発覚し、息子の不登校も始まり止むなく退学した)も含めて、本当に沢山の恩恵を頂き感謝してもしきれない。この国に何かの形で貢献出来ればと思い、今は老人施設でのパートをしつつ自宅でオンラインの仕事をしている。

話しが少しそれてしまったが、ただその福祉制度は定型発達の子供がスムーズに成長していくにあたってのセーフティーネットワークであり、そのネットワークからは沢山の発達障害の子供たちがこぼれているのが現状である。

なぜなら特別支援学校は別枠での自治体の審査が必要になってくるからだ(自治体が特別学校に支払うお金がとても高いため)。そして、その審査の壁はとても分厚い。

もちろん、行政も力をあげて特別ニーズの子供たちに沿った学校や施設の充実に力を挙げてはいるが、なんせ不登校児が増えている現状に追い付いていないのが現状だ。今もなお不登校の子供たちは、診断のための病院、自治体の審議会、特別学校の空き枠、と1年単位での順番待ちを強いられている。

そんな現状にもれず、私たち家族もここから息子の進学にあたって、長い自治体との付き合いが始まって行くのである。

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