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空想考古学・邪馬台国はココだ!#7 南方系?

 邪馬台国の場所の同定では、距離や方位ばかりが議論されますが、邪馬台国(女王国)の風俗や習慣等も見落としてはならない重要なポイントです。

 まずは、入れ墨の風習です。『男子無大小 皆黥面文身 ( 男子は大小の区別なく、みな顔や体に入墨をする)』の記述のように、魏志倭人伝には入れ墨のことが何ヶ所にも書かれています。これは当時の歴史家が中国とは異なる風習に注目していたためです。奄美大島では、明治政府に禁止される明治の初期まで、入れ墨の風習が残っていました。ただし、入れ墨をするのは女性の方で、魏志倭人伝にあるような男性の入れ墨の風習は残っていなかったようです。これまで邪馬台国の有力候補と考えられてきた北部九州や畿内では、昔から一般人の入れ墨の風習はありません。

 『倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣 (倭の地は温暖で、冬も夏も生野菜を食べる。みな、裸足である)』という記述も見落とされがちですが、重要な情報です。北部九州や畿内は、東北地方や北海道に比べればはるかに温暖ですが、「冬でも裸足」というのは少し無理があります。また、邪馬台国の時代は今より平均気温が低かったという説もあり、そうなれば尚更、北部九州や畿内を邪馬台国に同定するのは困難で、邪馬台国・奄美大島説がシックリきます。

 また、魏志倭人伝には『始死停喪十餘曰 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飲酒 (死してから十日余りもがりし、その期間は肉を食べず、喪主は泣き叫び、他の人々は歌舞・飲酒する)』のように、死者に対するもがりの風習が記述されています。喪はもがりという字でも表されますが、日本の古代に行なわれていた葬送儀礼です。殯では、死者を埋葬するまでの長い期間、遺体を納棺して仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な死を確認することです。この風習も、奄美大島や沖縄などでは比較的最近まで残っていたそうです。

 魏志倭人伝では、女王・卑弥呼は鬼道を操る巫女(シャーマン)のように描かれていますが、奄美大島には今でもユタと呼ばれる民間霊媒師がいて、霊的問題のアドバイスや解決を生業としているそうです。ユタとは少し違いますが、沖縄にはノロ(祝女)と呼ばれる琉球神道における女性の祭司がいました。ノロは、琉球王国の祭政一致による宗教支配の手段として、古琉球由来の信仰を元に整備されて王国各地に配置され、地域の祭祀などを司っていました。

 琉球の神話には、日の大神(天の最高神)がアマミキヨという神様に命じて島作りをさせたという話があります。つまり、アマミキヨが琉球の創世神です。この名前から妄想できるように、琉球の祖先は奄美からやってきた可能性もあります。アマミキヨは島々を作っただけでなく、穀物なども伝えたとされています。

 

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