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ウロボロスの遺伝子(25) 第5章 首相官邸⑥

 ホテルの小さな部屋の薄明りの中、赤城は自分の無力さを痛いほど感じていた。「もう少し何かできた筈なのに」、「あの時こうしていれば」と後悔ばかりが赤城の頭をよぎった。赤城はベッドに入ってからも、恐怖と興奮でなかなか寝付けなかった。しかし、奥多摩までの出張疲れもあり、午前二時を過ぎた頃にはいつのまにか眠り込んでいた。そのあとは連日の深夜勤務による寝不足もあり、情報端末にセットしたアラームに起こされるまで、夢を見ることもなく朝まで熟睡した。

 赤城はレストランでの朝食を軽めに済ませ、身支度を整えて一階のロビーに向かった。約束の時間より少し早かったが、すでに黒田が到着して待っていた。
「おはようございます」と黒田にいつもの調子であいさつされると、赤城は昨日のことが現実ではない悪夢ではなかったのかと錯覚するような感覚に陥った。
「昨日は助けて頂いて、ありがとうございました」赤城は余裕がなくて言いそびれていた昨晩の感謝を黒田に伝えた。
「実を言うと、鬼塚局長から赤城主任を自宅まで見届けろと命令されていたんですよ。少し離れて主任を尾行していたのを気付きませんでしたか?」近づいてきた黒田が小声で言った。
「尾行の途中で四人の怪しげな連中に気付いたんですが、四人同時に確保するため、機会を窺っていました。主任には怖い思いをさせて済みませんでした」と黒田が続けた。

「話の腰を折って済みません。今思い出したんですが、暴漢に襲われる前にすれ違ったカップルには気付きませんでしたか?」赤城が聞いた。
「――申し訳ありません。暴漢の方に集中していたので、よく覚えていません」少し考えてから黒田が答えた。
「そうですか・・・・・・。やっぱり、私の気のせいかしら」と赤城が小声で言った。
「少し込み入った話があるので、場所を移動しませんか?」黒田に促されて赤城はロビーの端に移動し、引き続き黒田の話を聞いた。

「昨夜の犯人たちの供述を、所轄にいる友人から聞いてきました。まだ確認は取れていませんが、四人のうちの一人、あの巨漢はエジプト人だそうです。もう一人は中国人、残りの二人が日本人です。四人ともインターネットの闇サイトの求人広告を見て、赤城さんを襲ったそうです。ただし、請け負った仕事は『脅し』だけで、赤城さんに危害を加える予定はなかったそうです。ですが、最初に赤城さんに組み伏せられた日本人を見て、巨漢のエジプト人がパニックになって予定外の行動に出たようです」黒田が昨夜の経緯を簡単に説明した。

「脅迫の仕事は、すべてインターネット経由の依頼だったようです。ですから、四人全員が依頼主と面識はないそうです。犯行に使われた黒い目出し帽や作業着は黒幕である依頼主が手配したもののようです。また、報酬の前金が二万円相当のネットコインで支払われていました。これらのことから考えて、例の件の犯人と同一の線が濃いと思います。こんなわけで、暴漢たちの依頼主を特定することはかなり難しそうですね」と黒田が続けた。

「ところで、黒田さんは空手を習っていたんですか」と赤城が聞いた。
「前にもお話したように、空手はやったことがありません。私の格闘術は、師匠から一子相伝で教わった名無しの古武術です。これでも一応、第六十九代の継承者ということになっています。ただし、どこかの漫画のような無敵の暗殺拳ではありませんので、ご心配なく。私の古武術は、人を生かすための拳法で、人を傷つけるための拳法ではありません」

「私の師匠は熊野活人拳(かつじんけん)と言っていましたが、正式な名称ではありません。先々代は別の名前を名乗っていたとも聞いています。名前に関しては結構いい加減な古武術ですが、その歴史は古いんです。私の師匠の話では、この古武術の開祖は空海だそうです」と黒田が説明した。
「あの空海・・・・・・、弘法大師がその古武術の開祖なんですか?」と赤城が訝(いぶか)しげに聞いた。
「はいそうです。もちろん、私の師匠が言っているだけです。この古武術に関する一通りの伝承は、師匠から聞いています。しかし、口伝えの伝承ですから証拠になるような古文書は一切ありませんし、私も実は半信半疑です」黒田がきっぱりと言った。


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