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ウロボロスの遺伝子(48) 第8章 廃校舎⑦

「林田さん、そろそろ来るはずなんだけど、道に迷ったのかな?」と思いながら山根は気を揉んでいた。自分の方に近づいてくる若い女性は山根の視界に入ってはいたが、脳の中では関係ないものとしてデータ処理されていた。その女性が急に声をかけてきたので、山根は本当に驚いた。

 秋菜と一緒にサークルが開催されているマンションに入ると、サークルのメンバーが一斉に「山根さんが彼女を連れてきた」と冷やかした。サークルのメンバーはほとんどが中高年の男性で、山根のような青年でさえ珍しかった。ましてや若い女性が参加することは、サークル始まって以来の珍事だった。

「仕事で忙しいと常々言っている山根さんが、こんな綺麗なお嬢さんをどこで見つけたんですか?」とサークルの主催者が声をかけた。
「僕も今日初めて会ったんですよ。彼、いや彼女とはネットの対局を通じて知り合いました」と山根が釈明した。
「まったく驚きましたよ。山根さんがいきなり彼女を連れてくるもんだから」
「か、彼女じゃありません。林田さんが困っているじゃないですか」と言いながら山根が困惑していた。
「林田です。今日は山根さんからお誘い頂きました。こういうサークルに参加するのは初めてです。よろしくお願いします」と秋菜がメンバー全員に挨拶した。

「挨拶が済んだところで、さっそく対局しましょう。お嬢さんの棋力はどのくらいかな?」と主催者が聞いた。
「小学校の頃は父とよく対局していたんですが、ネットの対局でチェスを再開したのはつい最近で、十年振りくらいです。ですから、自分の棋力は良くわかりません」と秋菜が答えた。
「それじゃあ、まず私と対局してみましょう」と主催者が言った。

 秋菜は、山根を除いたすべてのメンバーと次々と対局したが、一度も負けることはなかった。最後は、秋菜と山根の対局になった。
「サークル最強の山根さんが負けるわけにはいきませんね」と代表が山根にハッパをかけた。
「山根さんには、まだ一回も勝ったことがないんです」と秋菜が言った。
「全力を尽くします」と山根が言って対局が始まったが、山根の終盤のミスで秋菜が勝利した。
「今日は運が良かっただけです」余りのチェスの強さに驚愕しているメンバーに秋菜が言った。

 このサークル参加をきっかけとして、山根は秋菜とサークル以外でも時々会うようになった。二人とも話すのが苦手で、一緒にいても会話はそれほど弾まなかったが、山根は秋菜の優しさと賢さに次第に惹かれていった。
 山根と秋菜が付き合い始めて半年後、山根が上司の逆鱗に触れて大学を辞めることになった。普段から連絡は頻繁ではなかったが、一週間ほど秋菜とは連絡を取っていなかった。山根は意を決して秋菜に電話をかけた。
「もしもし、林田さん。山根です。一週間ぶりだけど元気にしてた?」
「山根さんこそ、こんな時間にどうしたの?」
「――」
「――大学を辞めることになった。しばらくは、チェスもできそうにない・・・・・・」と山根声を搾り出だすように話した。
「どうしたの? 理由を聞かせて!」と秋菜が聞き返した。


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