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空想考古学・邪馬台国はココだ!#6 方位と距離

 邪馬台国の位置を論じる場合に問題になるのが、方位距離です。九州説では方位は問題ありませんが、距離が合わないために「距離を恣意的に胡麻化して」います。また畿内説では、距離は辻褄が合いますが、方位が合わないので「方位を恣意的に胡麻化して」います。どちらの説も、方位と距離に問題があり、魏志倭人伝の記述と合致させるのは不可能です。

 しかし、私が考える邪馬台国・奄美大島説では、距離も方位もバッチリ合致します。前回の記事で、古代中国から見て海外にある邪馬台国への出発地は「釜山付近」と考えました。この出発地を従来の帯方郡ではなく、「釜山付近」と考えるのが、「邪馬台国の位置攻略」の最初の一歩です。

 出発地から邪馬台国までは、万二千里(12,000里)です。まずはこの距離を考えてみます。出発地から海を三千里行くと、ヤマタイ帝國の支配領域(友好国?)である末廬國に着きます。ここから、現・鹿児島の志布志湾辺りにある狗邪韓國に向かいます。狗邪韓國までは出発地から七千里です。朝鮮半島および九州の地図を見るとわかるのですが、出発地⇒末廬國の三千里を基準とすると、末廬國⇒狗邪韓國はおよそ四千里なので、出発地⇒狗邪韓國は三千+四千=七千里です。

 多くの邪馬台国説では、狗邪韓國は韓国に比定されていますが、私の説では狗邪韓國は九州の鹿児島にあります。この(九州にある)狗邪韓國から邪馬台国(奄美大島)までは海路になりますが、およそ五千里ですから、七千+五千=万二千里とピッタリ距離が合致します。

 また、魏志倭人伝には出発地から邪馬台国までにかかる時間(日程)の記述もあります。出発地から邪馬台国までは『水行十日 陸行一月』です。まずは、水行十日の内訳ですが、「出発地⇒末廬國」が水行三日、「狗邪韓國⇒邪馬台国(奄美大島)」が、島伝いに水行七日です。つまり、三日と七日で合計十日です。陸行については、末廬國⇒狗邪韓國は陸行一月で、九州の東岸を陸路で移動します。なぜ、東岸を移動するかといえば、西岸は男王・狗古智卑狗(くくちひく/きくちひこ;菊池彦)率いる敵対国・狗奴国があり、安全に通行できないためです。

 ヤマタイ帝國が支配する代表的な友好国が、伊都国、奴国(五万戸)、投馬国(七万戸)です。投馬国は宮崎県の西都原付近と考えられますが、ヤマタイ帝國最大の国です。魏志倭人伝には、邪馬台国の人口が一万二千戸と書かれているので、多くの邪馬台国研究者は広い土地を想像しますが、そんな必要は無いのです。邪馬台国は多くの国を支配する帝國なので、支配する国々の人口の合計がヤマタイ帝國の人口です。つまり、奴国と投馬国を合わせた人口、一万二千戸がおよその人口になります。邪馬台国本国(奄美大島)は、宗教的な儀式が行われる、現在で言うとバチカン市国みたいな役割だったと考えています。

 奄美大島を邪馬台国本国と考えると、『會稽東冶之東』にあるように、古代中国の都市である会稽や東冶の東側にあるので、この点でも方位は合致します。また、この邪馬台国(女王国)の北にある国々が、羅列された箇所がありますが、この国々は邪馬台国から北上しながらの順番で書かれていることに注意が必要です。このように考えると、最後に奴国が再度出てくることが矛盾なく説明できます。これらの国々の中には、現在の場所を比定できそうな場所もありますが、それが邪馬台国・奄美大島説の補強にはならないので今回は割愛します。

 このように、邪馬台国を奄美大島だと考えれば、方位や距離がピッタリと一致します。自分の説と合わないと、「魏志倭人伝が間違っている」という人たちがいますが、それは本末転倒です。まずは、魏志倭人伝の記述が正しいことを仮定して、議論を始めるべきなのです。

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