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ウロボロスの遺伝子(45) 第8章 廃校舎④

 秋菜がチェスを覚えたのは、小学生の時だった。週末のある日、いつもは難しい本ばかりを読んでいる父親が、珍しくチェス盤に駒を置いて、チェスの棋譜を並べていた。その棋譜とは、人工知能(AI)が人間のチェス世界王者を初めて破った歴史的な対局の棋譜だった。父親がチェスを始めたきっかけは、海外留学の時の暇つぶしぶしだったと、秋菜は母親から聞いたことがあった。

 それまで弟の春馬(はるま)の面倒を見て、一緒にお絵かきをしていた秋菜が、目聡く珍しいものを見つけて聞いた。
「お父さん、これ何ていうゲームなの?」
「これはチェスって言ってね、日本の将棋みたいなゲームなんだよ」
「このお馬さんみたいなのは何?」秋菜は、将棋や囲碁とは違って立体的な駒の形に魅了された。
「これはナイトと言って、西洋の騎士が乗る馬を表しているんだ。駒の形も変わってるけど、駒の動かし方もかなり変わってるんだよ。少し分かり難いけど、前後左右に二マス進んで、そのマスの両隣が移動できる場所になるんだ。例えば、こういう風に」
「へぇ、動き方が本当に変わってるね」

 秋菜は父にチェスのルールを教えてもらい、週末には父親と何度も対局した。最初は駒の動かし方を覚えるだけで精一杯で、父親には全く歯が立たなかった。しかし、チェスの定石(じょうせき)が身についてきたある日、ワザと緩い手を指した父親に初めて勝利した。この勝利が嬉しくて、秋菜はチェスにのめり込んで行った。週末以外は、父親から借りたタブレット端末で、人工知能との対局やインターネット経由の対局を楽しんでいた。

 最初の頃こそ、手加減した父親にも全く勝てなかったが、ネット対局でプレイを重ねていくうちに、本気で指した父親にもいい勝負ができるようになった。最近では二回に一回は父親に勝てるほど、急速にチェスが上達していた。秋菜は、最初に駒の動かし方を覚えたナイトが特にお気に入りで、対局ではナイトを使った攻撃的な戦略を使うことが多かった。この日もナイトの縦横無尽の大活躍で、父親を負かしていた。

「秋菜には叶わないな。こんなに負かされたら、父親としての威厳が保てなくなるよ」
「ねぇ、お父さん。もう一回だけやろう。本物のチェス盤を使って対局できるのは、お家だけなんだから」と秋菜がせがんだ。
 毎週末のように父親と楽しく対局していたチェスも、ある時期を境にして対局することがほとんどなくなった。小学生の秋菜には理由を知る由もなかったが、父親には以前のように明るさがなく、何かに悩んでいるようだと子供ながらに感じていた。

 ある日、秋菜が小学校から帰ると、母親から父親が亡くなったことを聞かされた。まだ子供たちが小さかったこともあり、気丈にふるまう母親からは、父親は急な病気で亡くなったと知らされた。父が自殺だったと知ったのは、ずっと後のことだった。母から父の死を告げられた後も、秋菜には父が死んだ実感はなかったが、「もうこれで、父さんとはチェスができないんだ」と悲しくなった記憶があった。この日から、秋菜は大好きだったチェスをやめた。


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