じゃ、お前がやれ
どうも。
コロナかかって熱は下がっても嗅覚が無い系大学生です。
今日も外出れなくて退屈なので、高校時代の軽い愚痴(?)話でもしようか。
あれは高校3年生の時、文化祭の片付けを行っていた日のことだ。
俺はある同級生と喋りながら片付けをしていた。
どんな話をしていたのか、今となってはもう覚えていないが、彼のあの発言だけはハッキリと覚えている。
このフレーズだけ出されても何のことだか分からない人がほとんどだろう。
軽く説明すると、俺の高校では体育祭が6月、文化祭が9月に開催される。体育祭では、全学年の各クラスが赤団青団黄団の3団に別れる。俺のクラスは青団であり、更に団長がいた。
体育祭後の打ち上げでは、その団長が花やケーキをプレゼントされ、盛大に祝福されていた。
ちなみに、俺もその同級生も打ち上げには参加していない。先程の事は、打ち上げ後にクラスLINEに追加された写真から知った。
さて、ここまでの背景があると、俺のクラスはさも学校行事で大いに盛り上がり、その行事の功労者(正に団長)は盛大にもてなされる。
そういう印象を抱いてもおかしくはない。
しかし、文化祭はそうではなかった。
盛り上がっていたのは間違いないが、特別な労いを受ける者などはいなかった。
確かに、文化祭は体育祭よりも遥かに「皆でつくる」行事である。そのため、クラスの全員が功労者であるという見方を皆が無意識にもっていると考えられる。いや、もはや功労者といった概念すら存在しなかったかもしれない。
だが文化祭にも、団長ほど花形な役職ではないが、その企画・運営に特に携わった生徒=「実行委員」がいた。
その実行委員の一人が、先程の同級生のセリフに出てきた「△△」である。この人をKと呼ぼう。
改めて先程の同級生のセリフを要約すると、「体育祭で団長を労うなら、文化祭の企画・運営に大きく携わったKも労えよ。それが筋ってもんだろうがよ?」ということだ。
クラスに文化祭実行委員は複数人いたが、特にKにその仕事や負担がのしかかっていた。K以外の人間が非協力的で、Kに仕事を押し付けていたみたいな事情だった気がする。
そんな事情もあり、Kには何か特別な労いがあって然るべきだということだ。
俺としては体育祭も文化祭もどうでもいい行事だったので、打ち上げには参加しなかったし、団長等に対する労いの気持ちなど更々無かった。なので、彼の発言の正当性自体は正直どうでも良い。当時も適当に相槌を打っていた気がする。
ただ一つだけ思ったことがある。
「じゃ、お前がやれ」
だ。
口では偉そうなことを言いながら、他人には厳しい事を言いながら、自分では全くやろうとしない。
それが気にいらなかった。
誰もKを労おうとしないのをクラス全体のせいにしている。その自分もクラスの一員なのにだ。
そればかりかクラスの人間が浅い人間たちであると揶揄していた。自分こそKに何もしちゃいないのに。
まぁ何というべきか、高校生あるあるだろうか。
他者を批判することで自分の優位性(笑)を示そうとする行為は。
これで彼がKにジュースを奢ってやるとか、実際に何か行動をした上であの台詞を言っているのならまだしも、Kに何もすることなく偉そうな台詞だけをのたまってしまうのは、どちらが浅はかだろうか。
という話であった。
高校生というのは身も心も大きく大人へと近づいていく時期だ。そして、彼ら自身にもその自覚がある。だからこそなのか、多くの高校生が「子ども」を脱し「大人」への仲間入りをしようと焦っている。何が「大人」なのかも分からずに。
高校時代を振り返ってみると、自分も含めてそのような人が沢山いたように思えた。
彼らは皆、何が「大人」なのかは分からない。しかし何が「子ども」なのかは知っている。自身がそうだったからだ。
そのジレンマが、彼らをむやみに「大人」に近づこうとさせていたのかもしれない。
「大人」であろうとする彼らは大抵、他者の「子ども」な部分を見つけては、それを批判したり揶揄したりすることで、相対的に自分を「大人」であると思い込もうとしていた。
そのように思える。
彼のあの台詞も、その一つだったのかもしれない。地元でも、高校でアルバイトを始めてからやたらと「〇〇って常識だから。」という台詞を吐き散らし、「俺は社会のルールを知っている。子どもなお前らと違ってな。」と言わんばかりのイキり方をしている同級生がいた。
自分こそ中学生から喫煙をしていた癖に。
一方で、批判や揶揄といった消極的な手段ではなく、積極的な行動で「大人」になろうとした人はほとんどいなかった。それこそが、高校生の「大人」になり切れていない部分だったのかもしれないと今となっては思う。
大学4年間を経て、俺も彼も誰も、何かが「大人」になれていれば幸いである。
それでは。
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