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イ・チ・モ・ツ  第11話

                1、 

 七時のニュースをお伝えします。今朝未明、昨日まで東シナ海に浮かんで
 いたはずのイチモツの姿が見えなくなっているとの情報が石垣島の自衛隊
 基地より官邸に寄せられました。これを受けて大河内官房長官はさきほど
 会見を開き、イチモツの大部分が一夜にして消失したのは事実であり、そ
 の行方についてイチモツが海に沈んだのか、何者かによって切断された可
 能性があるのか、現在、衛星写真などの解析を進め、真相を究明している
 と述べました。NHKが政府関係者に取材したところ、昨夜石垣島の自衛
 隊基地に常駐していた複数の自衛隊員が、イチモツらしき物体がもの凄い
 スピードで縮む様子を目撃した、との情報が上がっているようです。この
 事態を受け、昨日行われた国民投票の結果をどう処理するのか、官邸では
 至急対応を協議するということです――
 

 代々木公園野外音楽堂前の広場に設置されていた大きなスクリーンで岡山剛志はそのニュースを見た。
「なんだかイチモツが消失したらしいぞ」――そんな噂がSNS上に流れ始めたのは今朝六時くらいのこと、昨夜までの凍えるような寒さがウソのように消え去り、春のような生暖かい風が漂う何か不思議なことが起こりそうな予感を感じさせる朝だった。

 最初、剛志はそんなバカなことが起こる訳ないだろ、きっと誰かが何らかの意図で流した低レベルなフェイクニュースだと思っていたのだが、広場に集まっていた連中から「どうも本当らしいぞ」という声が上がり始め、今から三十分ほど前に「みなさんイチモツが消失したというニュースが入りました」とこの集会のリーダー格の男の声でアナウンスがあり、大型スクリーンに映し出されたNHKのニュースを剛志を含めた「反イチモツ派」の人々が食い入るように見つめていた。

 アナウンサーがニュースを読み終わると人々はいったいどういう反応をしていいものなのかザワザワ戸惑っている感じだったが、「やったじゃん」、「勝ったじゃん」と誰かの声がしてそれにつられるように他の誰かが「バンザーイ」と叫び、それを契機に次々とみんなが人差し指を突き出したポーズで手を上に掲げ「ウォウウォウウォウウォウ」と大声を上げその場でジャンプし始め、それを見たイベントのリーダー格の男がマイクを持ってステージに登場し、「みなさーん、過程はどうあれ、僕たちの望んでいたことが実現しましたー!」と叫び、集まった人々も「ウォー」と応え、それに合わせて重低音のダンスミュージックが流れ出し、広場は一気に野外音楽フェスのような状態になった。

 伸一は……? 伸一はどうなったのだろう……?

 周りの若者たちが興奮して乾杯したり抱き合ったり音楽に合わせジャンプしたりする中、剛志はそのことが気になってⅰパッドを操作し伸一の安否に関する情報を探してみたがイチモツが縮んだことを伝えるニュースばかりでなかなか見つからない。伸一は……? 伸一は無事なのだろうか……? 急上昇した気温のせいではなく剛志はダラダラと冷や汗をかいて下着が濡れているのを感じた。

 ドーンという音がしてステージから銀色のテープが発車され会場に集まった人々の頭上に舞い上がった。人々がワーと歓声を上げる。シャンパンか何かをぶちまけてる奴もいるようで小さなしぶきがⅰパッドの画面に飛んできた。なんだよ汚いなぁ……と思って指で画面についた水滴を払うと画面がスクロールし「男性は無事」という見出しが目に入った。

 え! と思い画面を拡大する。イチモツが縮んだことを知らせる文章が長々と続いた後最後に一行だけ「なおイチモツの持ち主である男性の容態に異常は見られていない」という短い文章が載っていた。ソースは読売新聞。一応信頼出来るソースだが一つだけではまだ信じられない。記事のコメント欄を辿って他にも情報がないか探してみる。

「イチモツ消失しても本人は生きてるらしいwww」というコメントにリンクが貼ってあるのが見つかりクリックして記事に飛んでみる。やはり長くイチモツが縮んだ事実を伝えた後「石垣島の自衛隊関係者によるとイチモツの持ち主の男性は無事な模様」と書かれていた。ソースは共同通信。

 ふー……。まだ確信は出来ないが、どうやら伸一は無事でいる可能性が高いようだ。良かった……と思った時突然横からガツンという衝撃を受け剛志はバランスを崩し左の腰から地面に倒れた。

 痛い……。

 手から離れたⅰパッドがバスンと広場に並んでいる植木の根っ子、土の部分に落ちた。もー何すんだよと思いながら視線をあげるとハイネケンのビール瓶を手にして千鳥足の髪を茶色に染めた学生風の男が「は……すいまへん……」と呂律の回らない口調でこちらを見ていた。何するんですか! と言い返そうとしたが男を見ると完全に酔っぱらった目をしている。痛いし腹が立つけどこれは関わらない方がよさそうだと思い無視していると、「ギャハハハ、お前何やってんだよ」、「ちゃんと謝っとけよ」という声が聞こえてきた。男の仲間なのだろう。同じく千鳥足の2人の男が手を叩いて爆笑している。「おにひさん、とーもすいあせんね……」ハイネケンのビール瓶を持った男がそう言って千鳥足のままこちらに背を向けて去って行き、仲間の2人も笑いながら続いて行った。

 はぁ。とんだ災難だった。
 とりあえずⅰパッドが無事がどうか確かめないと思い立ち上がったが腰が痛い。腰を押さえて痛みを我慢しながら植木の土の部分に落ちていたⅰパッドを拾う。たまたま土の上に落ちたのが良かったのかもしれない。少し泥で汚れてはいたが幸い画面は割れていなかった。

 変な酔っぱらいも増えてきたからそろそろ帰ろう……そう思って歩き出した時、剛志の視界の端に黄色い小さなものが映った。ん……? ⅰパッドが落ちていた植木の土の部分、木の根っ子に隠れるように黄色いタンポポの花が咲いていた。

 え……? 
 と思い剛志はタンポポの花に顔を近付けた。タンポポって確か春に咲く花じゃなかっただろうか……? 確かに今朝は異常なくらい気温が上がっているものの何でこんな季節に……? 

 奇跡だ、奇跡が起きた……。
 
 剛志はそう思った。
 ある日突然巨大化した伸一のイチモツ。そのイチモツが今朝また突然縮み、たまたま酔っ払いがぶつかってきて飛ばされたⅰパッドの落ちた場所に真冬に咲くはずのないタンポポが咲いていた。

 剛志の頭にこれまでのことが蘇ってきた。突然イチモツが巨大化した伸一と一緒に大事なプレゼンに挑んだこと……二丁目の母と呼ばれる占い師アキラさんに相談に行ったこと……石垣島まで伸一に会いに行ったこと……生まれて初めて反イチモツ派のデモに参加したこと……。何故だか分からないが、今までやって来たことの全てがこれで報われるような気がした。伸一はきっと自分の元へ戻って来る……根拠は全くないが剛志は確信した。

 泥で汚れたⅰパッドを手に取りタンポポの写真を撮る。
 ヘヘッ、戻ってきちゃったよ。
 黄色いタンポポはそう言っているように見えた。
 
 

              2、 


 靖国神社の境内で吉村太一はそのNHKのニュースを見た。
 国民投票の結果を見届けようとこの場所に集まっていたイチモツ支持派の一人が、持っていたタブレットPCでそのニュースを見ていて、その周りには20人くらいの人が集まっていた。  

 イチモツが消失したみたいだ――という噂は一時間ほど前から周りで上がり始めた。
「消えたらしいぞ」、「嘘だろ」、「イチモツなくなったって」、「ちょん切られたのか?」――太一が靖国神社の境内のベンチに座ってウトウト仮眠をとっていると周囲からそんな会話が聞こえ目を開けると、取材に来ていたテレビ局のスタッフがテンパった感じで電話をかけていたり、背中に「イチモツ礼讃」と書かれた特攻服を着た右翼の男性が「そんなことある訳ねーだろ!」と大声を出して暴れまわっているのを警備員の人たちが押さえつけたり、またその騒動の様子を映そうとテレビ局のカメラマンが慌てて駆け寄ったり……辺りは騒然とした空気が漂い始めた。

 イチモツが消えた……?
 そんなことがあり得るのだろうか……?
 あれだけ時間をかけてゆっくりゆっくり伸びていたイチモツがたった一晩で消滅するなんて……。中国や韓国や日本の左翼の奴らが流したフェイクニュースじゃないのか……? 初めはそんなふうに思った太一だったが、たった今NHKのニュースでも報じられ、官房長官の記者会見の映像まで放送されたことでどうやら本当のことのようだと理解した。

 なんなんだよこの肩透かし……。

 たとえ国民投票の結果が自分の望まない結果でも、それはそれで仕方がない、潔く受け止めてやる、昨日の夜はそんな気分でいたがまさかイチモツが一晩で消失するとは思ってもいなかった。昨日までの高揚した気持ちをどう始末つければいいのか分からなかった。周りにいるいる他のみんなも同じ気持ちなのだろう。この試合に勝てばワールドカップ出場が決まるという試合でつまらないスコアレスドローの試合を見せられたサポーターのようにみんなトボトボと駅へ向かって歩き始めていた。

 史上初の国民投票の結果イチモツ存続が決定し、その歴史的瞬間をイチモツ支持派のみんなと共有し、興奮を味わい肩を組んで勝利を祝って夜通し酒を飲む――そんな計画でいたので今日の仕事は休みを取っていた。だから特に今日はやることがなくなってしまった。

 なんだよまったく……。
 まあ、せっかくだからちょっとお参りしていくか……。

 なんだか真っ直ぐ家に帰る気にもなれなくて太一は地下鉄九段下駅とは逆方向、靖国神社本殿の方へ向かって歩き始めた。道路にはテレビ局の中継車が止まっていて帰り支度をするカメラマンやスタッフたちの姿があった。
手水舎の水で手を清め、門の前で一礼して本殿へと進む。戦没者の人たちはこの騒ぎを見てどう思ったのかな……?

 ふとそんなことを思った。昭和の戦争の時もこんなふうに国論が二分されるような騒ぎになったのだろうか……? いや、違うな……。確かあの頃は対米戦争やむなしの声が圧倒的に強かったはずだ。戦争反対なんて言ったら非国民扱いされた時代だろう。ということは今みたいにこうして親イチモツ派と反イチモツ派が一生懸命ケンカしてる状況はある意味健全なのかもしれない。

 そんなことを考えながらふと空を見上げた時だった。
 綺麗に広がる青い空。その空へ向かって伸びている寒々とした木の枝の中にひとつ、朝日に照らされ小さく輝く白いものが目に入った。

 ん? なんだあれ……?

 よく見てみる。白にうっすらとピンクが混じった花が小さな花が一輪だけ小さく咲いていた。
「え! 桜が咲いてる!」
思わず太一は大きな声を出してしまい、その声を聞いて周りの人たちが一斉に太一を見た。

「いや、咲いてる! ホラ、あそこ……」桜の花びらを指差すと「あ、ホントだ」、「ウソでしょ」、「ヤバイホントに桜じゃん」とか言いながら物珍しそうに周囲にいた人たちが寄ってきて、みんなスマホを取り出し写真を撮り始めた。

 確かに今朝は十二月とは思えないほど暖かい。でもまだ十二月だっていうのに東京で桜が咲くことなんてあるのだろうか? 品種によって違いはあるんだろうが、確かこの靖国神社の桜は気象庁が桜の開花日を観測するための標本木にしているはずだ。それがこんな時期に咲くなんて……。

 そんなことを思っていると周りで写真を撮っていた人たちの中から「もしかしてイチモツがなくなったからじゃねえか?」と言う声が聞こえてきて太一は思わず振り向いた。二十代後半くらいの男性たちのグループの中のリュックを背負った眼鏡をかけた男性が「イチモツが急に縮んだからさそのエネルギーがこっちに波及して咲いたんじゃね?」と言い彼の友人たちが「ああ、あり得るかもね」と頷いている。

 この花がいつから咲いていたのか分からない。でも確かにもしこの花が今日開いたのだとしたらあのイチモツと何か関係があるのかもなぁ……太一がそんなことを考えていると、

「あのーすいませーん、最初に見つけた方どなたですかー?」台場テレビの腕章を巻いたテレビ局のスタッフがキョロキョロ周りの人たちに尋ねているのが見えた。
「あ、あの人ですよ」茶色いニット帽をかぶった50代くらいの男性が太一を指差して、台場テレビのディレクターらしき男性が太一の方に向かって来る。

 え? なにこの展開……? 

「あの、台場テレビですけど、最初にこの桜が咲いてるの見つけた方でしょうか?」
「あ、はい」
「あのちょっとお話聞かせていただいてもよろしいですか?」
「あ、はい」太一がそう応えるとディレクターらしき男性は「おーい、こっち来て! 進藤も」と大きな声で向こうにいるカメラマンたちに声を掛けた。なんだかスゴイことになっちゃたなぁ……と困惑しているとテレビカメラとマイクを持った女性アナウンサーがやって来た。

 ウワッ、進藤えみこだ!

 太一は思わず声に出して叫びそうなった。
 台場テレビの女子アナはかわいい人が多いがその中でも進藤えみこは太一が一番好きなアナウンサーだった。進藤えみこが登場したことでさらに多くの人が集まり始めた。

「すいません、よろしくお願いいたします」白いブラウスを着た進藤えみこが爽やかな春風のような笑みを浮かべながら目の前にやって来て頭を下げた。サラサラでツヤツヤの髪がなびいて凄くいい匂いが漂ってくる。

「あ、はい」と冷静を装って応えながら太一はド緊張していた。テレビカメラの前でインタビューを受けるのはもちろん初めてのことだ。しかも何事が起きたのかとあちこちから人が集まって来てカメラの後ろには百人くらいの人だかりが出来ている。その人たちの視線がこちらに向けられている。こんなに注目されたのは生まれて初めてかもしれない。

 そう思っていると「じゃあいきます、3……」というさっきのディレクターの声が聞こえてきた。え? もう始まるのか? こういうのってリハーサルとかないのか……? 心の準備が整わないまま2~3メートル離れた位置で進藤えみこが喋り始めた。

「はい、こちらは国民投票の結果を待っていたイチモツ支持派のみなさんが集まっていた靖国神社の境内なんですが、なんとご覧ください、桜が開花しています、この花びらを最初に見つけた方にお話を聞いてみたいと思います。すいませんお話うかがってもよろしいでしょうか? よろしくお願いします」進藤えみことカメラマンが太一の方へ歩み寄って来る。うわーどうしよう、「やっぱり無理でーす、すいませーん」と叫んでこのままダッシュで帰っちゃおうかと思ったがこの段階ではもう無理だ。仕方なく太一は「あ、はい、どーも」という声と精一杯の作り笑いで応えた。

「この花が咲いてると気付いたのはいつだったんですか?」
「いや、つい15分くらい前です」
「見つけた時はどうでしたか?」
「いや、まだ年も明けてないのにまさかと思ったんですけどよく見てみたらやっぱり桜の花びらだったんでめちゃくちゃ驚きました」

 あれ? 俺意外と普通に受け答え出来てるな……めちゃくちゃ緊張してたはずなのに意外と言葉がスラスラ出て来ることに太一は驚いた。声も上ずったり震えたりしていない。

「そうですよねー、今日は国民投票の結果を仲間のみなさんと分かち合うためにいらしてたんですか?」
「はい、そうです」
「イチモツが消失したというニュースはお聴きになりましたか?」
「はい、さっき」
「イチモツがなくなったのとこの桜が咲いたのは何か関係あると思われます?」
「いやー、分かんないですけどもしかしたらあるかもしれないですよね」
「失礼ですが、イチモツ支持派の方でいらっしゃいますね」
「ええ、はい」
「どうですか? イチモツが消失したというニュースをお聞きになって?」
「いやー、イチモツ支持派だったんでイチモツがなくなっちゃったっていうのはショックだったんですけど、この桜見たらまあいいかって思っちゃいました」

 太一がそう言うと進藤えみこが口を押えて「あはは」と笑い、それにつられるように周りにいた人たちがみんなわーっと手を叩いて笑った。自分の発した言葉でこんな美人が笑うなんて……あの進藤えみこを笑わせたなんて……。そして周りにいるギャラリーみんなが笑うなんて……。小学校から高校を卒業するまで笑われたことはあったがみんなを笑わせるなんて体験はしたことがなかった。

「お話ありがとうございました」インタビューが終わりニコッとこちらに天使のような微笑みを見せて一礼して歩き去ろうとしていた進藤えみこに太一は「あのすいません」と声を掛けた。
「?」進藤えみこがこちらを振り返る。
「あの……握手してもらえますか……?」勇気をもって尋ねると進藤えみこは「あ、はい」と言って女神のように右手を差し伸べてくれた。

 その時進藤えみこのサラサラヘアーが揺れて再びいい香りが漂ってきて「ありがとうございます」と言いながら太一は自らのイチモツが若干もっこり反応するのを感じた。おいおい、もしかしたら明日には俺のイチモツが巨大化してるかもしれないな……勘弁してくれよ……そんなことを想像してニヤニヤしていると今度は「日日スポーツですけどちょっとお話よろしいですか?」と言って日日スポーツの腕章を付けた記者が声を掛けてきた。

「あ、はい」太一は応え、再びインタビューを受け桜の花びらを指差すポーズを取ってカメラマンに写真を撮られた。
 なんかスゲーな俺……。集まってきた人たちが太一を見て「あれ誰?」、「有名な人?」、「なんか見たことあるかも……」と話す声が聞こえてくる。

 こりゃ明日仕事に行ったらみんなに「テレビ見たよ」、「新聞出てたよね」とか言われて今日のこといろいろ聞かれるんだろうな……太一は思った。駅のトイレ清掃のアルバイトは朝早いしきったないトイレとイライラした通勤客への対応はものすごくストレス溜まるし正直他にもっと楽で稼げる仕事があるならすぐにでも辞めたい仕事だった。でも今は早く出勤したい気分だった。今ならどんなに汚い便器を何台でも掃除出来そうだ。イチモツ消失という事態を受け、ついさっきまで肩透かしにあったような気分はすっかりどっかに飛んでいた。

 インタビューが終わり、もう一度桜の花を見上げる。なんだか凄い御利益を貰った気がする。桜の木の向こうには綺麗な青空が広がっていた。たくさんの人たちが集まりその桜の写真を撮っていた。

 あ、そうだ、俺もスマホの待ち受け写真用に一枚撮っておこう。この桜を待ち受けにすればきっとこれからもご利益が貰える。そんな気がした。

 スマホを構えて写真を撮った。
 撮った写真を見てみる。
 その白い花びらは風が吹けば飛んでいってしまいそうなほど儚い。が、なにか凛とした決意を感じさせた。あのイチモツも立派だがこの小さな桜の花も立派で美しい。これまで見たどの桜よりも綺麗な気がする。満開の桜じゃなく一輪だけそっと咲いてるところも良かった。
 太一は満足そうにスマホの画面を見つめた。
 
 

                3、

 
 横山亜樹がそのニュースを知ったのは12月15日の朝7時過ぎ、ニトリで買った4人用ダイニングテーブルで息子たちと一緒に朝食のロールパンとサラダとコーンスープを食べ、紅茶を一口すすって、よし、今日も頑張って行くか、と食器を片付けようと立ち上がった時だった。

「タクちゃんほら、ユウちゃんも、早く食べて、保育園遅れちゃうよ」
Eテレの子供番組に夢中で口が動いてない息子たちに声を掛けた時、ティロリロンと音がしてテレビ画面の上部に臨時ニュースのテロップが入った。

 大河内官房長官が記者会見。東シナ海でイチモツが消失したと発表――

 え、ウソ! 亜樹は慌ててテレビのリモコンを取り、「ぼくみてるのにー」、「なんでかえるの!」と怒る息子たちの声を無視して民放のニュースに切り替えた。

 台場テレビではバラバラバラバラという大きなヘリコプターの音とともにリポーターが空の上から東シナ海の様子を生中継していた。「ご覧ください、信じられません、昨日までここにドーンと海に横たわっていたはずのイチモツですが、その姿が現在は見ることが出来ません、信じられない光景です」

 汐留テレビではこの間観た「あのイチモツはナニモノなのか?」という番組で司会をやっていた女性アナウンサーが代々木公園から中継していた。

 あれだけ石垣島から何十キロも何百キロも伸びていたあのイチモツがたった一晩でなくなっちゃうなんてそんなことある……? 信じられない……。亜樹は思った。でもテレビでこれだけ放送しているのだから事実に間違いないのだろう。考えてみれば元々男性のイチモツがあんなに巨大化するなんてこと自体があり得ない出来事だった訳だから何が起きたって不思議ではないのかもしれない……。

「イチモツなくなっちゃったの?」ロールパンを右手に持った次男のユウトがこちらを見上げて聞いてきた。4歳児も知っているくらいあのイチモツの存在は日本中に浸透している。

「うん、そう、なくなっちゃったんだって」ユウトの頭を撫でながら亜樹は応える。「ふーん」と言ってテレビを見ながらロールパンをかじるユウトの横顔がかわいくて思わずほっぺにチュッとする。

あのイチモツがなくなったということは……。ユウトのほっぺたをさすりながら亜樹は考えた。
これで元通りの生活に戻れるのだろうか……?

 日本の男性たちの性欲も元通りになりホテヘルにもお客さんが戻りまたホテヘルの仕事も再開出来るのだろうか……? ホテヘルの仕事がなくなって以来この数か月、収入が大幅に減って家計が厳しくなり、少しでも稼がなきゃと週6日シフトを入れている看護師の仕事は体力的にもきつく子育てとの両立が大変で、このままどうなるのだろうと先のことも不安でついついイライラがつのり、子供たちにも大声で叱ったり手を出したり、きつく当たっていたかもしれない。長いこと美容院にも行ってないし髪の毛もパサパサだしオシャレにも全然気を使ってないし素敵なお母さんとは程遠かった。

 ごめんね……

 心の中でそう呟いてながらもう一度ユウトのほっぺたをさすった。でも、また元通りの生活に戻れれば、もうちょっと気分に余裕が出来る。金銭的にも体力的にも楽になるはずだ。そう思うと自然と笑みがこぼれた。

 母親のそんな気分を感じたのだろうか、ロールパンをむしゃむしゃしながらユウトがこちらを向いてニコッと笑った。亜樹もユウトに微笑み返す。と、その時――

「あ、ママー、おはながさいてる!」
 いつの間にそこにいたのだろう……。
 窓際に立った長男のタクトがベランダを指差していた。

「え……?」
「さいてるさいてる! おはなさいてる!」タクトが窓の前でバタバタと足踏みしている。

 え……? なに……?

「ホラ、ママきてきて」
 足をバタバタさせながらタクトが大きな声を出す。

 なんだかよく分からないまま亜樹は立ち上がってタクトの方へ向かった。
タクトが窓を開ける。すると――

ベランダの隅、タクトが毎日水をあげていたペットボトルの植木鉢の中で緑の葉の上にピンク色の小さなチューリップが咲いていた。

 ウソ! いつの間に……。
 
 亜樹は思わず声に出した。
 花のつぼみどころか芽だって出ていなかった気がする……。いや、もしかして私が気付いてなかっただけなのかしら……? いや、それにしたってまだ十二月だ。チューリップって春に咲くんじゃなかったっけ……? 亜樹の頭の中でたくさんの「?」が踊っていた。

「やったやった」タクトが嬉しそうにジャンプしている。ユウトもやって来て「やったやった」とお兄ちゃんと抱き合って一緒に喜んでいる。

 奇跡だ……そう思った。

 あのイチモツがたった一晩でなくなって、それを祝うかのようにタクトが大事に育てたチューリップが咲いた。なんだか今日という日が亜樹には新たな人生のスタートのように思えた。新しく生まれ変わったような気がした。
夜が明けて間もない街にまるで春のような青空が広がっている。咲いたばかりのピンク色の小さなチューリップの花は産着でくるまれた赤ちゃんのように緑色の葉っぱでくるまれている。今朝は暖かいからいいけども、冷たい風に吹かれたら凍えて死んでしまいそうだ。部屋の中に入れてあげた方がいいのかもしれない。

「ママすごいでしょすごいでしょ」、「すごいでしょすごいでしょ」タクトとユウトがそう言って抱き着いてきた。

「ホントだね、凄いね凄いね」亜樹は力いっぱい二人の息子を抱き締めた。
 良かった……。
 根拠はない。でもこれでなにかすべてが上手くいくような気がする。
 小さく咲いたピンク色のチューリップを見て亜樹は思った。
 
 

                4、

 
 汐留テレビ本社の仮眠室で寝ていた今日子は朝6時に叩き起こされイチモツが消失したことを知った。

 そんなことあり得る……?

 急いでトイレに行ってメイクをしながら今日子はそういえばあのイチモツが武蔵野の空に突如として出現したのもこの仮眠室に泊まっていた日だったなぁと思いだした。
 とりあえずイチモツ反対派が集会をしている代々木公園に行ってくれ、ディレクターにそう言われロケバスに飛び乗った。

 情報は錯綜している。バスの中ではスタッフが「で、結局どうなってんのよ!」と苛立った声で電話するのが聞こえ、今日子もスマホでいろんな情報を検索してみたが、今のところ確かなのはイチモツが消失したらしいという事実のみでそれ以外の詳しいことはまだ分からなかった。

 表参道を抜けたロケ車が原宿駅を過ぎ代々木公園前に滑り込む。時刻は7時15分。イチモツ反対派の人々が集まった代々木公園イベント広場はすでにお祭り騒ぎだった。重低音のダンスミュージックが響き酔っぱらった若者たちが抱き合ったりハイタッチしたりしている様子はサッカーワールドカップで日本代表が勝利した時の渋谷のスクランブル交差点のバカ騒ぎにも似ていた。

「なんか今日暑くね?」
ロケバスを降りてイベント広場に向かって歩いているとスタッフの一人がそう言ってダウンジャケットを脱いだ。確かに朝早いのに春のように暖かい。昨日までの寒さがウソのようだ。カメラマンの男性は半袖Tシャツ一枚の姿になっている。今日子も着ていた白いカシミアのコートを脱いで手に抱えた。すると――

 ん……? この匂い……?

 歩道の脇から甘い香りが漂ってきて今日子はふと足を止めた。

 沈丁花……?

 振り返ってみると歩道の植え込みの緑の中に沈丁花の花が咲いていた。近付いてみるとその白い花びらから強烈な春の匂いがした。
子供の頃、春の日におばあちゃんと手を繋いで散歩していた時に道端に咲いていたこの花の匂いを嗅いで「このお花なんていうの?」と聞いた。それ以来、毎年この沈丁花の匂いを嗅ぐと、あぁもう春なんだなぁと思う。
でもまだ十二月だ。なんでこんな時期に……?

「おい、下平、何してんだよ早く行くぞ」ディレクターの苛立った声にハッとなり今日子はスタッフの後を追った。

 
「はい、こちらは渋谷区の代々木公園にありますイベント広場です。こちらには昨日の夜からイチモツ反対派の皆さんが集まっているんですが、ご覧ください、イチモツが消失したというニュースを受けてこれは我々の勝利なんだと、先ほどこのイベントの主催者から勝利宣言が出されまして、今会場はお祭り騒ぎとなっています」


 生放送のレポートが始まりカメラの前でマイクを持った今日子は周りの若者たちにインタビューしていった。

「では、こちらの男性に伺ってみましょう」番組スタッフが「こいつこいつ」と指を差しているグレーのパーカーにニット帽をかぶった学生風の男性にマイクを向ける。「イチモツが消失したというニュースを受けてどうですか今のお気持ちは?」、「ちょーうれしいでーす」、男性が応えると周りから「オー」という声と拍手と笑い声が上がった。「国民投票の結果は……」と今日子が言いかけると隣にいた男性が無理矢理マイクをつかんで「サイコーでーす」とコメントし、またその隣の男性もマイクをつかんで「サイコー」と言ってVサインをし、そのまた隣の男がマイクをつかんで「めっちゃハッピー」と叫びレポートはめちゃくちゃな状況になった。

 こりゃダメだ。

 そう思って今日子は「いやー、みなさんすごい興奮状態ですねー」と言いながら集団から離れ別のターゲットを探すと再び番組スタッフが「あの子あの子」と若い二人組の女性を指差していた。「女性の方にも聞いてみましょうか……あ、よろしいですか?」、「はい」、「国民投票ではどちらに投票されましたか?」、「イチモツ切断に」、「私もイチモツ切断に」、「国民投票の結果が出る前にイチモツが無くなるという事態になりましたがいかがですか?」今日子がそう尋ねて女性にマイクを向けた時、ドスンと背中に衝撃を受けた。

 何事だと思って振り返ると先ほどまで今日子のインタビューを受けていた男性たちの集団がやって来て制止する番組スタッフを振り切って女性の後ろでジャンプしたりカメラの前でピースしたりコマネチポーズをしたりしてはしゃいでいる。

 くそ、このガキども……と思いながらもなんとかレポートを成立させなくてはと思い「いかがでしょう今のお気持ちは?」ともう一度聞いてみる。すると二人組の女性の一人が後ろではしゃぐ男性たちを振り返ってニコニコしながら「最高でーす」と応えると、男性たちが「ウォー」と叫び、そのうちの一人が持っていたビール瓶を振り回しビールを噴射し始めたのをきっかけに次々と男性たちが持っているビール瓶の中身やドリンクをまき散らし今日子の周囲はあたかもプロ野球の優勝チームがやるようなビールかけ状態となった。

 わー、これはもう駄目だ、早くレポートを締めないと思い「以上、代々木公園から……」と言いかけた時――

「ヒュー」と叫びながらカメラの前を横切った男がまき散らしたビールがビシャーッと今日子の顔面に直撃した。
ビールが目に染みる。顔にかかったビールを手で拭いながらそっと目を開けると買ったばかりで初めて着たグレイのニットのセーターにシミが出来ている。周りからアハハハーという笑い声が聞こえる。番組スタッフもカメラマンも笑っている。これで私が笑いながら「以上代々木公園から中継でした」って締めれば番組的にはオモシロイんだろうなぁ……と思うとなんだか知らないが怒りが込み上げてきた。そう思うようになってたまるか……と思うと同時に今日子は叫んでいた。

 あんたらふざけんじゃないわよ!

 自分でも驚くほど大きな声が出た。
 そして気付いた。

 若者たちも、番組スタッフも、野次馬たちも、みんな驚いた顔をして辺りに一気に冷え切った空気が漂っている。きっとカメラの向こう、テレビの前も同じような反応だろう。

 あれ……? もしかしてやっちゃったわたし……?

 ビールで濡れた頬に穏やかな春風が吹いた。
 まいっか。また何処からか沈丁花の香りが漂ってきたような気がした。

「以上代々木公園イベント広場からお伝えしました」

 飛びっ切りのスマイルで今日子はレポートを締めくくった。

#創作大賞2023  

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