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本を読みたい、映画を観たい

時間がないからではない。私には大量の時間がある。今は職に就いていないからカネがない代わりに時間が大量にある。この大量の時間を使って再び社会の一員となるべく自分を鍛錬したいと思っている。だが、実際はこれ以上ないくらい怠惰な生活をしている。お昼過ぎに起きることなんかしょっちゅうであるし、そこから簡単な家事(掃除や簡単な料理など)をやったりやらなかったりする(心身の調子がよい日はやるようにはしている)。もちろん、それだけでは大量の時間が余ったままなので、残りの時間を(こんなふうに)文章を書いたり、軽い運動(散歩やジョギング)をしたり、将来のための勉強をしたり、本を読んだりすることに充てている。

読字困難

私の文章をよく読んでいただいている人やSNSで私のことを知っている人に対しては、しつこいくらい何度も言及したことだと思うが、私は長い文章を読むことができない。というより読むのに恐ろしく時間がかかってしまう。具体的にどれくらい読むのが遅いかというと、このあいだ実測したところ1分間に100字程度という結果であった(1分間に2行~3行程度)。平均的な読字速度は400~600字/分と言われているようなので、私は平均的な人の1/4~1/6程度の読字速度しか出せない。

本を手に取って読み始めると最初の1行目で、いま読もうとしている行とはちがう行が目に入ってしまって、そちらの意味内容といま読んでいる行の意味内容が頭のなかでグチャグチャに混ざり合って、いま読もうとしている行の内容が意味不明になって読解が進まない、ということがよく起こる。なにか意味のあるものが視野に入っているとダメなようなので、いま読んでいる行とその次の行(計2行)以外は、何も書かれていない白紙で隠して読むようにしている。そうすると、少しは読みやすくなるのだけれど、読字スピードは先に述べたとおりで、読解は遅々として進まない。読み取り性能の悪いバーコードリーダーのようになんども同じ行を読もうとしては失敗する。まるで視線が紙面の上を滑っているような感覚がする。「眼光紙背に徹す」の逆の現象が起こっている。そうしたことを繰り返しているうちに読むことに疲れて読むのをやめてしまう。

Inputは生きがい

しんどいのならやめてしまえば?というのは、まさしく正論なのだが、私の場合、「読むことができない」のは「生きがいの喪失」に他ならないので、やめたくない。知識欲や知的好奇心はどちらかというと強い方であると思う(知らないことがあきらかになった瞬間やあたらしい発見をしたときや新しく知ったことが既知の事項と結びついたとき、大きな快楽を感じる)し、新卒の入社試験のときも「あなたは何をモチベーションにして日々生きていますか?」と訊かれた際に「世の中で起こっている事柄の因果関係や法則性をあきらかにすること、ないしは謎を解くこと」と答えるくらいには、知識をInputすることに強いこだわりがある(つもりだ)。

また、「読めない」とInputがショボくなって、結果ショボいOutputしかできなくなる(私の場合、Outputは文章)。大量にInputすることではじめて、自分のなかで<いいたいこと>が出てくる。この<いいたいこと>には、衝動のようなパワーが乗っている。「どうしても言わなければならない」「ほんとうにいいたい」ということばには力が宿るし、読んでいる側も「面白い」と感じやすい。私にとってOutputする(文章を書く)ことは生きがいのひとつであるので、「読めない」という現象(症状)により、生きがいを取り上げられてしまったように感じる。非常に苦しい。

学習も読むことが基本

学習することも基本は「(テキストなりなんなりを)読むこと」であるので、読むことの障害は、目標に向けての前進をかなり律速している。一人で稼げるようになるためにいろんなゴールを立ててみて、そのなかで私が生きていくうえで最も幸福度の高い選択肢(いくつか)には、やはり学習することが必須になってくる。というか、「これら(いくつか立てた目標)に到達できなければ、私が生きている意味がなくなる(不幸になるために生きる、みたいな本末転倒な人生になる)ので、死んでしまったほうがマシかもしれない」と考えることも少なくない。

映画を観て気づいたこと(情報の重み付け)

映画も観たい。(シナリオの構造やカメラワークやセリフで何を伝えようとしているのかは自分のOutputに活かすことができるし、観ていて単純に面白い)。けれども、字幕を追うのが場面転換に追いつかない。日本語吹き替え版で観たら幾分ラクではあるが、聴き取り速度が場面転換に追いつかない。なかなかひどい。家で映画をNetflix等で観るときは、同じ箇所を何度も巻き戻しして観る。

ここで気づいたのだが、私は「"だいたい"読む/観る」ということができない(非常に不得手である)ようだ。概要把握ができない。本を読むなら最初から精読だし、映画を観るなら最初から精観(?)である。最初から完全に理解しようとする癖がある。だから、己の処理キャパシティを超えた情報量を処理しようとしてしまう。その結果、すべてを取りこぼしてしまう。キーワードだけ拾って読むとか観るということができない。これは詰まるところ、情報の重み付けができていないということである。何が大事な情報なのかわかっていないということ。

完璧に読もう/観ようとする脳の癖

これは最初の読書の話に繋がっていて、「いま読もうとしている行」とは異なる行が視界に入ってきたときにそれも完璧に処理しようと脳が働いてしまうのだ。この癖は生まれついたものであると思われるが、それを成育過程でうまく矯正できなかったというのは悔やまれる。もちろん、良い部分もあるにはあるのだが、少なくとも社会適合的ではなかった。いま生まれてからちょうど30年くらいになるが、この約30年間、私は効率的でない頭の使い方をしていた(ということに最近ようやく気づいた)。特に発達的に凹凸のある私にとって、凹部分を重点的に使う(と同時に凸部分をまったく使わない)ような方法、つまり「情報の重み付けが下手なのに一度にたくさんの情報を視野に入れようとすること」、「処理速度が低いのに速い処理をさせること」等は悪手と言って差し支えない。

自分の脳の凹凸(特に凹部分)の認識と分析

脳の凹凸部分と言っても単純に知能検査(IQテスト)で出てくる下位項目の分析だけでは足りないような気がしている。自分なりにここが凹んでいる、逆にここは凸っているというさらに精細な分析が必要であろうと思う。別に科学的エビデンスがなくてもよい。病気の治療ではないのだから。気が散りやすい人(私もそうだが)は、どういうシチュエーションに置かれたときに気が散りやすかったのかをメモしておくだけで、脳の自己分析の手がかりになるだろう。自分も最近「上手く〇〇ができないときは◇◇という状況だったな」等と書き留めておき、◇◇という状況を避けてみたり、◇◇という状況において自分はどういう情報処理の方式を採用していたか、をあとになって分析・考察してみて、上手くいかない仮説を立てて検証してみる等している(もちろん、医師にも相談する)(まだ、あまりうまくいっていないが)。

できることはやっていきたい

今現在進行形で、いろいろ苦しんでいて「自分にできることは何もないのだろう」「将来どうしよう(主に経済的に)」と思うことが多々あるが、できることはやっておきたいとおもう。特に、今みたいに時間のあるときにしかできないことは今のうちにやっておきたい思いがある。

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