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大人なのにまだ勉強しています


はじめ

いま、朝の8時半をすこし回ったところ、ベローチェでモーニングのセット(ツナサンド)を食いながら、暇を持て余したので、文章を書いている。昨晩は夜の23時ごろに意識が遠のいてしまい、翌朝(深夜)の2時ごろに一度目が覚めた。起きてなにかをするには、さすがにまだ早すぎるだろう……ということで、すかさず二度寝をかまし、5時ごろに再度起床、ここから私の1日がはじまった。

ここ数ヶ月は特に決められたことをやっているわけではなく、語学を中心とした学生時代に学んだことの学び直し(+資格試験の準備)をしている。〈今すぐ〉これらがメシの種になるとは毛頭考えていないが、近い将来、少額で良いから稼ぎのほっそ〜い柱の一本になってくれれば、との思いをこめてやっている。

スケジュールの立て方

決められたことをやっているわけではないとはいえ、まったくの無計画でやっていては一生かかってもいまの状況が改善するとは思えないので、ざっくりと1日の時間割りやノルマ、ゴールというものを設定して事を進めている。

元来、学生時代の時間割りのように何時何分から何時何分までこの教科を勉強する、といった細かい時間割りをしてその通りに動く、ということが極めて苦手な人間であったので、それほど1日を細かく分割して厳密にやっているわけではない。

以前、友人とオンラインで会話をする機会があって、そのときに友人たちには伝えたが、1日24時間から絶対に必要な時間(身支度をする/メシを食う/風呂に入る/寝るetc.)を引き算して、残った時間をだいたい3分割くらいにして、1st Termではこれ、2nd Termではこれ、3rd Termではこれをやるという風にざっくりとやることを決めている。

そのときに注意していることが、「自分が思っている以上に自分は怠惰な人間であるということを想定して予定を組む」ということである。たとえば、私の場合、1日の睡眠時間は10時間に設定している。あとはメシを食うのに1食40分くらいはかけるだろうとか、風呂には1時間くらい入ってるだろうとか、仮定していくと、24時間からどんどん時間がなくなっていく。最終的に9時間くらいが余るので、それを3分割して3時間でやりたいことを1つ達成できたらOKという自分に極めて甘い時間割りを組んでいる。

スケジュールというものは、それくらい余裕もって組まないと、絶対に持続しないということを経験上私は知っている。だから、上記のようにした。

ノルマと時間の使い方

さらに気をつけていることとして、「ノルマは時間ではなく、新しいことを何個習得したか?で決めること」である。よく何かを学ぶときに、勉強時間でノルマを立てる人がいるが、あれは私からしたらイマイチだ。だってね、どれだけ時間をかけても会得したことが少なければ意味がないからである。

要は無駄を減らしたい。勉強している時間は何かを理解すること/覚えることに充てたい。だから、すでに(完全に)覚えてしまったことを繰り返しやっている時間は私からすればあまり意味のない時間ということになる。その時間を使って新しい知識なり概念なりを記憶したり、理解したりすることに使ったほうがよいと考える。

一例を出すと、英単語を覚えようとするときに、前から順番に全部覚えていくのではなく、サラッと斜め読みしてみて、一瞬で答え(訳)が思い浮かぶ単語は覚える必要がない。逆に、一瞬で答えが出てこない単語は覚える必要があるので印をつけておく。2回目のインプットは印をつけたところだけやる。そして、テスト(アウトプット)は単語帳全体から出題してもらう。これが現状、科学的にもっとも時間対効果の高い勉強法(選択的インプット&全アウトプット)であると、とある論文に書いてあった。こういうことを考えながら学習する習慣をつけている。最近は、便利な学習アプリもあるのでスマホ中毒者でも勉強が捗る。

学生の勉強と大人の勉強の違い

学生と大人が勉強するときに、大人にあるアドバンテージはいくつかあるが、集約すると「時間的制約が比較的緩い」ということになるのではないか?(「時間が潤沢にある」という意味ではなく、「持ち時間をどの分野に割くか比較的自由に差配することが可能である」という意味において。少なくとも誰かから時間の使い方を「指定」されることは少ない)
こうやって戦略を練ってから着手する余裕があるというのは、そのひとつであると思う。

学生には「受験」という明確なタイムリミットが設定されているので、じっくりと「作戦」を練っている暇などない。「そんなことをしている暇があるなら、さっさと単語のひとつでも覚えろ!」そう言われてしまうはずだ。

大人の勉強はその点自由だ。タイパやコスパが悪い学習をしていたとしても、誰かからせっつかれることはあまりない。結果の出し方も人それぞれ。学生時代、わからなくて暗記に〈逃げて〉いた部分も理論の本質的な理解に時間を割くことができる。参考書もただ覚えろ!という詰め込み型のモノから、理論的背景を丁寧に説明してくれている良書を選ぶこともできる。

こういった本は受験生時分は「試験までに間に合わない」という観点から、選択肢から外されがちである。もちろん、大人にも「何時何時までに◯◯という資格を取りなさい」というような時間の制約は当然あるが、受験生のそれと比べるとだいぶ緩いモノであると思う。学生時代にできなかった勉強をいまやることができていて、それはとても幸せなことだな……と感じている。

それは、わたしがいま職に就いていないということも大きく影響しているものと思われる。誰かに何かを何時何時までにやれという制約が皆無に等しい。わたしはこの時期にしかできない勉強をしたいと思っている。勉強した内容が将来直接的に役に立つか/役に立たないかわからないが、自分なりに将来きっと役に立つだろうと思ってえらんだことを自分なりの掘り下げ方で、雨水が岩を穿つように勉強していきたいと考えている。

周囲の雑音を遮断すること

ある程度歳をとってから勉強をすることになると、周囲からやいのやいのいわれることも少なくはない。「◯◯なんて学生のうちに終わらせておくべきだ」「今から△△なんかやって意味あるの?」「もっとカネになることをやれ」等々。
モノを学ぶのに何歳だから良い/悪いなんてことはないとわたしは思っているのだけれど、世の中にはそうでもない人がいるらしい。
わたしは一旦そういう戯れ言からは距離をとって、耳に入れないようにしている。

具体的にはSNSにログインする回数を減らした。SNSにはいろんな価値観の人がいる。それがSNSを面白くしている要因でもあるのだが、何かに集中したいときにはあまりにも大きなノイズになってしまうことがある。

自分の価値観を世間一般の通念であるかのように唱える者、自分の価値観・世界観を他者もこうあるべきと押し付ける者、もっと行くと自分の思うような人生のレールに乗っていない者はクズだの落伍者だのいう者まで少なくない。そういう〈世間〉の価値観に巻き取られてしまうこと(振り回されてしまうこと)は自分のやりたいことを進めるにあたって障害物にしかなり得ない。その人たちのことばがわたしたちを雁字搦めにする毒になることはしばしばあっても、薬になることはほとんどない。

なにより彼らがわたしたちの人生に何かあったときに責任を負ってくれるなんてことは絶対にない。(身近な人物のアドバイスならまだしも)そんな人のいうことに重きを置いて聞く必要があるか?わたしはないと思う。いったん、こうした雑音を遮断して、心を落ち着かせてから、1日1日為すべきことを為す。そういう精神状態にもっていくためにわたしはSNSを一時的に捨ててみた。

おもろい話ができる大人になりたい

わたしがいま勉強している理由のひとつに、「おもろい話ができる大人になりたい」というモノがある。なんかいるじゃあないですか?いろんなこと知っててこの人の話おもろいなあ……っていうおっちゃん。あれにわたしはなりたい。ですから、わたしのいう〈勉強〉には、一般的には娯楽と呼ばれている「小説を読む」とか「映画を観る」とか「アニメを観る」とかも含まれるのです。話のネタを増やすために勉強をしているといっても過言ではない。日常会話において他人を楽しませたり、頼まれごとをされたときに少しでも役に立つ回答を返せたり、もちろん自分自身が直面している種々の問題を解決したり、そういう何も実にならなそうな知識の蓄積がいつか生活の糧に変わるんじゃないかと思っています。

おしまい

さて、ベローチェのモーニングセットのツナサンドはすっかり冷え、オレンジジュースにプカプカ浮いていた氷は跡形もなく消え失せ、微妙に橙色が薄くなってしまったようなので、この辺で筆を置くことにします。いま認知機能の障害により、進捗それほど芳しくないのであるが、たのしく勉強することをライフワークにして、せめて〈おもろいおっさん〉にはなりたい。

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