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よきMC(促話者)になりたい

軽躁→喋りすぎ→コミュニケーションのキャッチボールできない

躁鬱病(双極性障害)あるあるだと思うのだが、軽躁時に多弁になり過ぎて他者との会話が成り立たない、というのがある。喋ることが次から次へと頭に思い浮かんできて、それを速く外に出力しなければ消えてしまうという意味不明な焦燥感に駆られて口が自動的に動く。私の場合、家族や友人からよく「句読点なく喋る」と言われるのだが、それを聞いていま自分が軽躁なのだな……と自覚することも多い。

会話はよくキャッチボールに喩えられる。自分が投げたボールを相手が受け取り、相手が投げ返してきたボールを自分が受け取りの繰り返し。要は、ターン制のゲームである。ところが軽躁時の私はこのルールを易々と破ってしまう。無自覚ではない。自覚しているのに止められないのだから質が悪い。ずっと自分が相手に膨大な量の情報を投げつけるだけで相手からの返答をもとに話を膨らませたり、相手に発言を促したりということがない。そんなことをしている間に次のことばが溢れ出てきてしまってそれらを取り溢すのがもったいないという強迫観念にも近い思いが生じるからだ。これと同じ現象はテキストでのやりとりでも起こり得、この間は友人からのLINEのメッセージ1件に対して34件のメッセージを返していたようだ。

自分のいいたいことをいかにしていわないでおくか

軽躁時の私にとってむずかしいのは、相手に喋らせることだ。人間というのは、かならず誰かに聞いてほしいことというのがあると思っていて、その<誰か>に私はならなければいけないな、と思うことが歳を重ねるごとに増えた。自分のいいたいことをいかにしていわないでおくか?これがとても大切なことなのだ。「沈黙は金」ともいうが、あとから「ああ……!これはいわなければよかった!」とか「これをいわなかったら相手の貴重な意見が聞けたかもしれなかった!」等と思うことが多い。

GWに友人と会ったときの話(私がホストで友人がゲスト)

先日、GWに友人と久しぶりに会って話をした。私は上記のことを意識して久しぶりの友人との食事会に臨んだ。ゲストは友人で、ホストは私だ。いざ、友人と会って喋ってみると、彼らのことばを引き出すのがこれまたむずかしかった。私の友人(今回会ったのは2名)は、もともと寡黙なほうであると(私は)認識しているので、彼らになにかを喋ってもらうためには、私がなにか喋りたくなるような話題を提供しなくてはならない。だいたい会話を広げるときは、相手との共通点から、というのが定石だ。私と彼ら2人の共通点といえば、「学生時代サッカー部に所属していた」ということなので、その話に関連して「最近、サッカー観てる?(ないしはやってる?)」ということを尋ねてみた。

そうすると、「Jリーグなら観てるよ」とか「いや~最近はどうも運動不足でねえ……」という返答が返ってきた。前者に関しては、友人2名はJリーグ中心に観戦しているのに対し、私は欧州サッカーを中心に観戦しているので、あまり話が噛み合いそうにない。Jリーグに関しても「最近なにかおもしろい試合あった?」とか「おもしろいプレーヤー見つけた?」と掘り下げようと試みたが、二者とも最近しごとで忙しいらしく、そこまで深く観れていないようで話があまり広がらない。

一般的なお題から話を広げようと試みる

そういうわけで、「最近、運動不足である」という比較的一般的な点(お題)から話を広げてみようと試みた。「運動不足ってことは最近もリモートワークなの?」「なにか身体を動かさない趣味とかハマってんの?」「この際だから身体を動かす趣味とか見つけてみようよ」等々。

ひとつめの話題(失敗!!)

ひとつめの話題は大して広がらなかった。「〇〇はまだリモートワークなの?」「俺のところはリモートワークだよ。△△は?」「俺のところは業務内容的にリモート無理だからなあ……」→終了。
仕事の話だから二人とも(仕事をしていない)私に気を遣ってくれたのかな……?とも思った。私としてはホストの気構えであるから、ゲストの二人には遠慮なく自由に喋ってもらえればいい(二人だけで延々と喋ってくれていても私としては一向に構わない)のになあ……と思いながら様子を窺っていた。

ふたつめの話題(相手がなにを求めているかに気づく)

ふたつめの話題もあまり。やはり、趣味とか娯楽の話をすると、だいたいは「仕事でいそがしいから」という答えが返ってくる。あんまり、私から趣味や娯楽の話をすると、「働きもせず遊び惚けている道楽人」との謗りを免れ得ないと思ったので、私からはこの手の話題は控えた。結果、場に少しの間、沈黙が流れる。
ここで気づいたのだが、二人の友人は沈黙であることをそんなに不快だと思わない人種なのでは?ということである。ひょっとすると、私以外にもっとざっくばらんにお喋りできる友達がいて、その人たちの前ではもっと雄弁なのかもしれない。少なくとも私に自分の喋りの聞き手としての機能は求めていない。たぶん、彼らが私に求めているのは、気の置けない友達(要はこいつやったら何も喋らなくてもええや、という位置づけ)とゆったりとした時間をともにするということで、お喋りが盛り上がるとかどうとかは副次的な要素であるのだ。

みっつめの話題(うまいこと広がった!!)

みっつめの話題でようやく話が少し広がりをみせた。友人(のうち1名)は「運動不足であること」や「人生の時間の大部分が仕事のままでよいのか(仕事以外の要素を加えたい)」ということを少し考えている様子だったので、それについてみんなで一緒に考えようか、という流れになった。各々がいろいろ候補を出し合ってみた。サッカー観戦、キャンプ(最初はグランピングあたりから)、釣り、ドライブ(車買おう!)、ジム通い、散歩、観光地を回ってみる、旅行、温泉、(パチンコ笑)等々、いろいろな案が出た(最後の方は趣旨から逸れたが)。

複数人で喋るときに大事なこと

基本的に収束的な話題(なにかひとつの答えを探すような話題)は、その話題について精通している人の独壇場になりがちで、他の人は<聴講者>という立場になってしまいがちである。そうではなくて、今回の第三の話題のように「みんなでなにかアイデアを出し合おう」といったような発散的な話題は、威圧的な人や攻撃的な人が参加者にいない限り、各々がブレインストーミング的に案を出せるので、話が広がりやすい。
わりとそのときに大事だなと感じたのは、「発言のハードルを下げること」である。「なにか役に立つことを言わなければならない」と考えてしまうとどうしても口が重くなってしまう。だから、私は先のみっつめの話題で趣味の候補として「パチンコでもやってみたら(笑)」というふざけたことを言ってみたのだ。これで、「パチンコでアリならなんでもアリやろ」と二人は思ったにちがいない。そのあと、わりとポンポンとアイデアが出た。

よきMC(促話者)になりたい

表題の「よきMCになりたい」だが、要は「人に気持ちよく喋ってもらいたい」というだけである。ちょうどいま私はカウンセリングを受けている最中なので、(この人なんか喋りやすいな…という)臨床心理士が使っている心理学的なテクニックなんかもところどころパクってうまく活用しようと目論んでいるところである。

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