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【挨拶】さて(お久しぶりです)

この文章を書いているのは2021年の9月7日の深夜、3時53分。

noteに残っている最後の下書きの日付を見ると2021年6月24日となっているから約2ヶ月半、ネット上で長い文章を一切書いていない。実はその2ヶ月半の間にあるVtuberの方へのファンレターを、ネットで私的に交流があった人にお手紙を、ということで計2万字程度の文章を書いたのだが、なんともいえない感触がした。2通とも直筆の手紙で、直筆という手間をかけるくらいだから、それだけ伝えたい強い思いがあったのはたしかだ。だから、久しぶりの作文で筆が一向に進まないとか、うまく思いを表現できないとか、その種の悩みに苛まれることは一切なかったのだが、なぜか書いていて違和感があった。はじめてnoteに文章をあげたときもそんな感じだったような気がする。文章を書いている自分に対する違和感/非日常性、そういったモノを知覚しながら、直筆で2万字くらいの文章を書いた。

2ヶ月半長い文章を書かなかった。その間に文章の書き方もほとんど忘れてしまった。いま、文章を書いているが、noteで文章を書くことを習慣としていたときの自分とはまったく異なる自分が文章を書いている感覚がする。文章を書かないことが”普通”になった自分が文章を書いているのはやはり変な気分だ。

文章を書かなくなった理由いろいろ

文章を書かなくなった理由はいろいろある。主に障害年金等の手続きを含む公的機関および医療機関とのやりとりに忙殺されたこと。noteのとある記事のコメント欄で厄介な人に絡まれて少し疲れてしまったこと。単純に私より良い文章を書く書き手が現れて文章に対する自信を喪失したこと。今後、文章を書くことを続けていくうえでの方向性の迷い。病状が安定しないことによる情報収集力低下による素材の枯渇。

そして、自分の人生を見つめなおしたときに文章を書くという行為は、「お金を稼ぐ」ということを目的にするのならば、迂遠すぎる道のりではないかと感じたこと(←もっと早く気づけ!笑)。
私は昨年の9月から今年の5月くらいまでの約8か月間文章を書き続けた。率直なところ、ある程度の手ごたえのようなものは得られた。さまざまな方々から私の文章に対する好意的なメッセージを頂けたし、その中にはプロとして文章でメシを食っている方もおられた。少額だが投げ銭も頂いた。これを続けていけばひょっとしたらお金になるかもしれない。そういう気持ちにもなれた。文筆業で生活の糧を得ている父からもある程度お墨付きをもらえたのもうれしかった。ただ「お金を稼ぐ」という一点を目標とするのであれば、もっと直線的にそこにたどり着く方法は確実に存在する。今のところの結論としては、今の私が文章でメシを食っていくにはまだ早い。単純な話、圧倒的に素材不足だ。私は他者と比べて、特殊な人生経験をしたわけでも、とびぬけて専門性のあるなにかをもっているわけでもない。以前、別の記事でも述べたが、作家の村上龍が「作家というのは人生の最後に選ぶ職業でいい」と言っていたのを聞いたことがある。概ね正解だと思う。今の私の脳内に蓄積している素材では人に読ませるような”おもろい”文章、”カネの取れる”文章は書けない(と思う)。"おもろい"文章にはディテールの込んだ"強い"エピソードが付随することが多いからだ。それがない文章は多くの場合、人を引き込まない。
文筆家、そうでなくても文章に携わって生計を立てていくまえに、もっといろんなことを経験した方がいい。なにかほかの職業に就いて働くのもそうだし、趣味のサークルなんかに参加して様々なバックグラウンドをもった人間と関わっていくこともそう、たくさんの書物を読むこと(これは今できない)もそうだ。そうしてたくさんの素材が蓄積された先に”おもろい”文章が書けるようになっているのではないか(なっていればいいなあ……)と思うのである。

ちょっとだけ就職活動してましたよ!って話

実はnoteに文章を書かないでいる間、少しばかり就職活動もした。以前、就職活動をしていたときに登録した転職サイトから、現在も求人情報が届いており、目ぼしいモノをチェックした。実際に受けたのはコンサルティング会社2社と外資系メーカー2社でいずれも電話面談だった。正社員での募集だったので、前職を退職した経緯、病気の治療経過、現在の病状等をお話したうえで、週5日、8時間超/日の労働を継続するのはむずかしいので、業務委託のような形で契約してもらうことはできないかと交渉してみた。就職面接というよりは、人生相談のような面談になった(笑)。結果、すべての会社から、「長期的な労働力としての稼働を期待してのオファーなので、ちょっと今のKakknさんの病状だと契約はむずかしいですね」とその場でお祈りのメッセージを頂いた。まあ、たぶんこうなるとは予想はしていたが、その通りになった。

今後の目標など

今後についてだが、障害年金の審査の可否が決定するまでなんともいえないが、もし年金を受け取れるようなら、最低でも1年、生活はなんとかなるので、その間に体制を立て直して資格試験の勉強でも始めたいと思っている。ターゲットはいくつかある。やっぱり資格の取得がむずかしそうだとなったら、自分のキャパシティが許す限りのアルバイトでも探してとりあえず労働しようと思う。社会復帰の第一歩だと考えているので、あまり大きなことはしないつもりだ。だが、一生それに甘んじているつもりもない。なにより私には(私にとって)大きな目標がある。私の人生でいちばん辛い時期に私を支えてくれた家族や友人たちに”金銭的に”恩返しがしたいという思いがある。特に両親についてはもう高齢なので、彼らが心身ともに元気でいるうちに私の稼いだ金でこれまで貰ったモノを一部でも返したい。

文章については、他に優先すべき事項が増えてきたので、更新頻度は落ちると思うが、ときどき書こうと思う。気分転換くらいのつもりで。あまり良い文章を書こうと気負いすぎることなく、続けられる範囲で続けたいと思う。完全にやめてしまわない限りはいつかチャンスが巡ってくると思うので、そのときにおもしろい文章が書けるようにしておきたい。
ちなみに今、いちばん苦しいのは、「本が読めないこと」である。これまで積み上げてきた知識は抜けていく一方で、新しい知識を仕入れることができないでいる。質の高い文章を書くためには、知識のアップデートは必須事項だと思うので、なんとかならないものか……と思案しているところである。

消費者としての怠惰な生活とVtuber

最近は、惰眠を貪り尽くし、親の脛をこれでもかというほど齧りしゃぶり尽くし、怠惰の限りを尽くしている。本当に毎日メシを食らって寝るだけ――世の勤め人の方からしたら夢のような生活を送っていると思う。ただ、強烈な良心の呵責と自己無価値感には苛まれる。
毎日なにもできないでいる。とは言いつつも、Twitterでしょうもないことを呟いてクダを巻いたり、YouTubeではnoteのネタにするでもなく、お気楽にコンテンツを消費する側に回っている。

Vtuberの配信も少しずつ見ることを再開し始めている。私が追っているVtuberグループ、にじさんじでは約1年ぶりに新人ライバーがデビューしたようで、各々の活動を純粋にイチ視聴者として、おもしろがって観ている(笑)。

どうでもいい話だが、私はVtuberをひとりのアーティスト・エンターテイナー・クリエイターとして観ている側面が強い。Vtuberという文化は、これまでなんらかの事情で埋もれていた才能を発掘し、スポットライトを当てる舞台として非常によく機能していると思う。私は才能のある人は、相応の評価を受けるべきだと思っているので、こういった文化は今後も根付いていけば良いなあと思っている。それにしても、よくもまあ、これだけ次から次へと魅力的な才能が発掘されてくるモノだなと感心する。ANYCOLORの採用担当者の慧眼にも。(この話はもともと別の記事でする予定だった笑。また触れることがあるかも)

毎日のように良質なエンターテイメントを提供・更新し続けることは並大抵の努力ではできないし、わたしたち視聴者はライバーの努力の結晶(それは氷山の一角である)を見せてもらい、楽しませてもらっている。ただ、それは単に消費されるだけのコンテンツであってほしくないというのが、私の素直な思いだ。
たとえば、すごくおもしろい企画があった。それを一度視聴して、ゴミ箱にポイッとほかしてしまうのではなくて、好きな音楽を何度も聴くように、聴くたびに情景が頭に思い浮かぶように、歌詞の意味を深く味わうように、じんわりとその人の脳内で反芻される、そのようなコンテンツであってほしいと思う。

実際問題、Vtuberという存在(概念)がこの世に誕生してから、もう何年も経っており、その間、数多のVtuberが生まれては、消え、膨大な量のコンテンツが産出されてきた。今も毎日のように新しいコンテンツが膨大に生み出されている。だから、そのコンテンツすべてに対して、等しく上記のような態度を取ることはきわめてむずかしい、実際問題、無理なのだけれども、ふとしたときに思い返して、ちょっと懐かしい気持ちになったり、もう一度過去のコンテンツを観て、一度めに観たときとはちがった見え方がしたりする、そういう体験がなされるコンテンツであってほしいなと最近Vtuberを観て考えていた。
自分はこれまで他人が誠心誠意込めて創ったコンテンツに触れては使い捨てしてお気楽に消費してきたタイプの人間だったが、そういうことに無頓着であった自分を自省するようになった。

きっかけはnoteで自作の文章を書き始めたことだと思う。ちっぽけながらコンテンツの生産者になったのである。ひとつの記事に数千字~数万字の文章を書いても、大してスキがつかない。PVも伸びない。反響も全然ない。モノを創作するのって、その労力に見合った対価が返ってくることはほとんどない。そういうことを肌身で感じるようになって、モノを創る人の偉大さを理解し、敬意のようなモノが以前に増して生まれるようになった。
あと、これはnoteでとある読者の方から言われて気づいたことなのだけれども、

「noteでは記事がタイムライン形式で表示されるので、過去の記事はほとんど読み返されることはない」

これって、自分の書いた文章が消費されて(使い捨てにされて)いるということに他ならないのだ。

これは、YouTubeでも同じことがいえる。新着動画がいちばん上に表示されて古い動画は、下へ下へと追いやられる。その動画を下までスクロールして遡る人はほとんどいない。

これは創作者の宿命だと思うのだけど、創作物の受益者がそれを求める以上、創作者は常に自分をアップデートしていかねばならない、さもなくば誰も私に見向きもしなくなる……という恐怖心(消費されることへの恐怖心)に追われ続ける。この恐怖心があるからこそ、新たな作品を生み出す原動力となって、より良質なコンテンツの生産に繋がっていくという側面は間違いなくある。これは、創作物の受益者側からしたら喜ばしいことなのかもしれないが、創作者側からしたらまた話が変わってくる。

コンテンツが消費されるスピードが速いということは、そのコンテンツが廃れていくのも当然速い。求められるアップデートの速度に対応できる創作者は生き残っていくが、そうでない創作者は淘汰され、新陳代謝が激しい業界となる。ある業界(文化)において、生産できるコンテンツの種類、数は有限であり、消費速度が速ければ速いほど、コンテンツが枯渇するのも速い。その分野で生産できるコンテンツが枯渇したとき、その業界は終焉を迎える。 

創作物の受益者(消費者)は、ある業界が廃れたら次の業界に移動してまた良質なコンテンツを消費すれば済む話だが、その業界の創作者は別の業界に移動するか、創作活動を引退するかを選ばなければならない。ある業界が発展するときは、その業界が「食っていける」業界かどうか?という点が大事である。創作者が「食っていけない」コンテンツは発展しないし、衰退も速い。つまり、コンテンツの消費速度があまりに速く、新陳代謝があまりに激しい業界は、コンテンツの生産者が「食っていけない」業界でもあり、衰退するのも速いだろう。

私はVtuberという業界が好きだからできるだけ長く存続してほしい。一過性のブームではなく、「文化」として根付いてほしい。業界を長く存続させようと思ったら、我々消費者側からできることとしては消費の速度を緩やかにすること、創作者側からできることとしては長く楽しめるコンテンツを創ること、プラットフォーム側からできることとしては過去のコンテンツも楽しめるようなシステムを構築することじゃないかなあと私は思う。

話が少し取っ散らかってしまったが、私が最近YouTube、とくにVtuberを観ていて思ったことだ。末永く「文化」として続いていってほしい。

最後に

久しぶりに文章を書いてみたが、やはり全然まとまらない(笑)。文章書くのって、こんなにむずかしかったんだね……。
2ヶ月半も文章を書かないでいたから、フォロワーさんもまあまあ減ったが、それでもよく100人も残ってくれたなあ……と思う。残ってくれた皆さんありがとう。先にも述べたとおり、これから更新頻度は落ちると思うが、ときどき頭にふと降って湧いたことなど(笑)、徒然なるままに書き記していければと思っている。

〈追記〉2021/9/18
実はこの文章は下記に示したにじさんじのVtuber、家長むぎさんの記事に影響を受けて書いた文章である。最後の「コンテンツの消費」に関する部分。コンテンツ生産者・演者として常に自分自身のアップデートを迫られることへの恐怖心およびそれを達成したときに得られる達成感について書かれた文章だと私は解釈したので、このような表現になった。本当はこの部分だけ単体のテーマとして抜き出してひとつの記事にする予定だったが、纏めきる精神力がなかったため、上記のとおり、簡単にメモする程度に留まった。むぎさんの今後の活動があとから振り返ったときにむぎさんにとって良いモノだったと言える活動となることを願う。



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