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#4 1983年 『エスパレイザー』大ヒット!  CM製作会社に入社

エスパレイザー』は1月6日より4日間、池袋文芸坐ル・ピリエで公開された。モーニングショーで一日一回の上映。しかも正月休みは終わっているという悪条件。そんな早朝に人が来るのか、と思いきや、『エスパレイザー』の人気は高かった。なんと毎回満員で、最終日の日曜には210人超満員という観客動員の新記録まで作ってしまった。トータル507人、一回平均127人だ。しかしこれって、いまわたしがやっている規模の映画公開と変わらない水準だな。毎回これだけ入る映画って大ヒットですよ。自主製作とはいえ、一本の映画を製作し、宣伝・配給までやってはじめて完成させたわけだ。

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次は当然のようにプロの世界に行きたいわけだ。しかしわたしは、まだまだ自主製作映画を作るのだ。加山雄三の『若大将』が、わたしは死ぬほど好きだ。17本ものシリーズなのに、毎回脚本はほとんど同じ。最高の理想的空間だ。このころ、特撮もののファン、8ミリ製作の同志のほかに、東宝娯楽映画のファンたちとも友人になった。「東宝研究会」というサークルに入り、『若大将』のみならず『クレージーキャッツ』ものの同人誌を作ったりしていた。そんな彼らと交流するうちに、ウルトラセブンに続いて、今度は自分が「若大将」になりたい、と思ったのだ。

ただし今回は『ウルトラセブン』のコピーと違って、「パロディ」をやろうと思った。映画を作る若大将という、自分をセミドキュメントふうにして、イキナリの展開のメチャクチャな若大将だ。タイトルは『イキナリ若大将』。この企画を東宝研究会の仲間と話して盛り上がっていた。東宝研究会には、いまも盟友としてつきあいのある、「アーカーイヴァー」の鈴木啓之くんも入っていて、かれとはのちに事務所を共有する長いつきあいになる。

またもや自主製作の気楽さで、完成予定を決めず立教大学の学園祭で若大将と青大将のからみのシーンから撮影をはじめた。青大将に扮したのは、東京歯科大学の学生だった浮谷英邦という男。不慮の事故死をとげた伝説のレーサー・浮谷東次郎の甥で、クレージーキャッツマニアで、クレージー映画のコピー8ミリを製作しており、傑作なキャラクターで意気投合したというわけだ。

更に、『ウルトラセブン』のキリヤマ隊長の爆笑のキャラクターを主演にしてシュールな短編『キリヤマ』も企画し、キリヤマに風貌が似ていた親友の田村忠久にキリヤマに扮してもらい、一部撮影をはじめていた。
『エスパレイザー』は本公開のあと、全国からフィルムレンタルの問い合わせがきて、もちろん有料で貸し出すという作業もやらねばならなかった。
8ミリフィルムというのは、16ミリや35ミリとちがってもろく破損しやすい。そしてポジしかないので、完成原版を上映するたびに傷がついていってしまうという性格のものだった。そこで一本まるまるデュープしてコピー版を作り、これをレンタルフィルムにまわした。

当時自主製作映画を上映するスポットは、恵比寿にあった『シネプラザスペース50』と『OM』がメッカであり、あとは各地の区民センターなどでさかんに行われていたものだ。
『エスパレイザー』は都内の上映をはじめ、大阪・福岡・新潟・愛知・鳥取と上映。いまのわたしの映画公開の規模と同じくらいなのであった。

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しかし、いくらなんでもすねかじりにも限界があり、そろそろ製作会社に入るなり、将来の決断をしなければならない。
円谷プロに入ろうといっしょん思ったが、このころの円谷は作品製作をほぼおこなっておらず、わたしの尊敬する実相寺昭雄監督飯島敏宏監督がいるわけでもない。却下だ。

そんなある日、ふと新聞広告に目が止まり、『キャット』というCM製作会社にいこう、と思い立った。時代はまさにCM全盛期。糸井重里川崎徹などのクリエーターが時代の花形だったのだ。ほかにも数社面接をうけたが、ある会社の面接官に、「あなたの『エスパレイザー』知ってますよ。でも、ここはああいうものを作るところではないから、あなたはやはり映画ではないの?」と言われた。この言葉をわたしは、別のかたちで約一年後に聞くことになる。

この夏、わたしはCMプロダクション『キャット』に入社した。東急エージェンシーの子会社であり、1970年というCM業界が昇り調子の時に創立され、当時のCM界では有名な会社だった。本社は麹町の日本テレビのすぐ裏手にあったが、いまは会社自体が吸収合併されない。赤坂の東急エージェンシー本社に分室があり、そこに行くことも多かった。ここに試写室があり、会社がかつて製作していた『マグマ大使』のフィルムがぞんざいに積んであるのを見た時には仰天したものだ。

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わたしはここで様々な勉強をした。コマーシャルはクライアントが神様。映像表現は、そのための道具だ。資本主義社会は企業の論理、商品をいかに売るかにすべてを使っているので、仕事は山ほどある。そしていきなりプロデューサーということになった。ふつう、新人はプロダクションマネージャーという助監督からスタートするのだが、わたしは社長になぜか気に入られ、異例の役職になった。

しかしわたしは、いきなりやらかした。完全に東宝映画の頭のわたしは、社員全体の自己紹介の際、の植木等『無責任』シリーズや『フレッシュマン若大将』の加山雄三をきどり、思いっきり派手な挨拶をした。しかしこれが失敗。あれは映画の中の出来事であり、現実に無責任男や若大将がいたら迷惑なだけだ。おもいっきり浮いてしまった。

上司は、高橋さんという会社のナンバーワンプロデューサーの方だった。ハンサムで格好く、いかにも団塊の世代の申し子のようなたたずまいだった。高橋さんのアシストで、いきなり、当時のCM界の花形ディレクターだった市川準さんと仕事をすることになる。「クロガネ学習机」のCMで、江ノ電の停まっている車輛での撮影だ。親子がホームでお父さんを見送る設定で、市川さん特有のおかしさのあるものだった。はじめての35ミリカメラを使用している現場である。カメラマンは川上晧市さんというすでに映画『サード』『もう頬づえはつかない』などで名カメラマンといわれた人だ。のちに市川さんは映画も監督しだすが、牧瀬里穂の『つぐみ』も川上さんと組んでやっている。とにかく35ミリカメラはでかい。半端ない技術がいると改めてわかった。
このカメラで映画を撮れる日は来るのだろうか? そんなことを思ったが、このころすでに8ミリ出身で鮮烈なデビューをしていた森田芳光監督の著書に、大変感銘したことが書いてあった。

8ミリと35ミリでは、草野球のピッチャーが大リーグに行くくらいの差がある」と。

そのためには、助監督などの下積みをしながらのし上がっていくしかないと思われていた。しかし、森田監督はさすが天才で考え方がちがう。とにかく親に借金して渋谷に事務所をかまえ、映画会社と交渉して秋吉久美子を主演にしてまず配給を決めてから製作にかかるという、綱渡りの賭けにでたのだ。わたしものちに森田監督のやり方に少しだけ倣い、プロデビューをするのだがそれはまだ先のことだ。

とにかく右も左もわからない業界だ。とにかく企画を山ほど出すが、そんなすんなり通るわけがない。映画『みゆき』でデビューした宇佐美ゆかりが出た『不二家パフィ』の仕上げや、とがった化粧品メーカー『マリークワント』の撮影の手伝いなどをこなし、この年は暮れていった。

CM製作会社を退社、森田健作の復活プロデューサーとなる

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