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(026) 生成AIと小説

第170回芥川賞受賞作の九段理江『東京都同情塔』は生成AIのChatGPTを利用して執筆されたことが話題になりました。
全体の5%位は生成AIが出力した文章そのままとのこと。

私はその作品がAIが書こうが人間が書こうが、面白いと感じられればどうでもいいスタンスです。その理非はあとで書くとします。

このニュースは海外でも報じられているようで、その内容に興味を持ちました。以下、Gigazineのリンク。

詳しい内容は当該記事を見ていただきたいと思います。

生成AIを利用した小説が日本の権威ある賞を受賞したことに対し、海外の報じ方はネガティブなもののようです。小説を一部とは言えAIが担うことに対する拒否感がすごい。一方、日本では淡々と報道しているように思います。

私の印象にすぎませんが、以前より小説に限らずAIの利用について、海外(主に米国かもしれませんが)は悲壮的で、日本は遊んでいる感じがしていました。
もちろん皆が皆同じ反応をしているわけじゃないと思います。飽くまで私の肌感の話です。

この彼我の差は何処からきているのか?
これが私が興味を持った点です。
文化の差だと言えばその通りでしょう。
では、その差は何なのか。

考察するにしろ調べるにしろ一定の結論を出すには時間がかかるので、ここでは問題提起にとどめます。

けど気になりますよね?


戻って。先に私はこう書きました。

AIが書こうが人間が書こうが、面白いと感じられればどうでもいい

充分にAIが進化した時に、私たちはある小説を人間が書いたかどうか判断がつくのか?ということでもあります。

判断ができないのであればどうでもいいんじゃね?

考えてみると、今ある小説がどういう過程で書かれたのか読者はそんなに知らないし知る必要もありません。
書いた人間の人間性も深くは知りません。書いている人はとんでもサイコパスかも。
本人は名前だけ貸して別人が書いているなんてこともありますしね。
実はもうすでにAIが書いているのを読んでいるかもしれません。

他の作家の作品を元にトレーニングされたAIが問題なら、やはり他の作家の作品に影響を受けた人間も問題じゃないか。

と考えると
AIと何が違うの?
と思うのです。
AIが書いたのがつまらなければ読まれないだけだし、それは人間でも同じこと。むしろ、作家の名前だけでファンというだけで読んでしまうことに、人間が書く意味があるかもしれません。


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