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1人で気ままにブックトーク(テーマ:ロボットと暮らす)

 現在、ロボットやAIの技術は、あくまで、人間がより良く生きるために、必要とされている。一方で、ロボットやAIという存在を、本当にそれだけの存在としてよいのだろうか。

『クララとお日さま』


子ども向けAI搭載ロボットであるクララは、販売店舗のガラス越しに見える世界を様々に考える。そんな中で出会った少女ジョジーと共にしたいと願い、念願が叶い、彼女と家族、周囲の人々と共に生きていく。しかし、そこで待ち受ける現実は、幸せといえるものなのか。ジョジーとクララのお互いの存在の意味は何なのか。

 クララは、病弱のジョジーを支える存在として迎え入れられる。クララは、その役割をクララの意志として、献身的に果たしていく。
 しかし、ジョジーとクララのそれぞれに待ち受ける現実は残酷だ。ジョジーの母は、命残り僅かなジョジーの、忠実な再現をクララに要求する。クララは、いつか死ぬジョジーの代替としての役割を求められるのである。

 ここで、AIの自我は、ジョジーの母から否定(無いものと)されている。そしてまた、同じように、ジョジーの自我も、代替可能なものとして扱われているという恐怖も忘れてはいけない。

 しかし、クララは自分の意志で、その役割を中止するための作戦を実行する。作戦は失敗するものの、クララの祈りのお陰で、ジョジーは健康な体へと回復する。そして、クララは、捨てられ、廃品置き場で最期を迎える。

 なぜ捨てられるのか。答えは、単純で、残酷だ。病弱のジョジーを支える役割としてのクララも、いつか死ぬジョジーの代替の役割としてのクララも要らなくなったからである。

 意志のあるクララであっても、周囲からは意思ある存在として見られない。この描かれる現実に対する苦しさは、客観的に、読者として接しているからわかるものなのだろうか。

 さて、我々は、育てたたまごっちだって、箱の中で死ぬことに、毎回毎回悲しんだだろうか。

『ロボット・イン・ザ・ガーデン』

アンドロイドが家事や仕事の様々な面で活躍する時代。庭に突如、ボロボロで迷子のロボットがやってきた。そのロボットの名前はタング。タングを直すために、旅をする中で、自己内面を見つめ、他者とのかかわり方を考える。子どものようなタングと共に、周りの大人も共に成長していく。

 物語において、アンドロイドは、人間の生活をより快適にするための存在として描かれる。例えば、車の運転や洗濯、場合によっては人間の欲の吐口として。(飛行機では、アンドロイド1人分の座席を取ることもあるようだが…)

 しかし、タングは生活を快適にする存在では無い。むしろ、生活を快適では無くしていく存在であると言える。例えば、嫌なことがあると大きな金切り声をあげたり、駄々をこねたりする。むしろ、人間の手を煩わせている。

 では、タングは疎まれる存在であるのか。答えはYESでもあり、NOでもある。役に立たない、しかもアンドロイドよりも古いロボットであることで、タングは何度も奇異の目で見られている。一方で、タングを可愛がり、1人のロボットとして、その尊厳を守ろうとする人もいる。

 その1人が、泊まったホテルの店主である。主人公がタングを置いて、1人呑みに出掛けてしまった時は、主人公が帰ってくるなり、1人にするんじゃ無い、かわいそうだろうが、ど怒鳴りつける。

 タングという意思を持ったロボットに対して、様々な立場の人間がいることがわかる。では、改めて、タングはどのような存在なのか。主人公は、タングが学習する存在であることに気づく。ポイントは、タング自身が主語になる点である。

 そこに、人に与える役割は存在しない。個として認めるのである。それは、まさに、大人が子供を見るときの目と似ている。子どもは、大人にとって役割がある存在では無い。その子どもの生き方・役割は、子ども自身によるものである。

 それでもあえて、人間に寄せて考えるのであれば、人間の生活をより快適にするのではなく、人間の生活をより豊かにする存在であるとは言えるかもしれない。しかし、人間の存在を豊かにするために存在しているのではない。あくまで、結果的に、豊かにする存在である。

 ロボットを、1人の意思ある個として、共に生き続けようとするのが、本作であるといえる。思えば、有名なドラえもんもそうである。しかし、現実社会において、ロボットやAIを、個として認めるとは、出来ることなのであろうか。

『翔太と猫のインサイトの夏休み 哲学的諸問題へのいざない 』

翔太とインサイト(猫)が問答形式で、哲学的に物事を捉えていく。有名な哲学者からスタートするのではなく、身の回りの疑問を徹底的に言葉で考えていく一冊。

 この中で、

『心がある』についても同じなんだな。次の二つの表現を比較してみるといい。ひとつはね、『識別の仕方は他の人と同じだけど、ほんとうは違う色が見えている人』っていう表現だ。もひとつは『完璧に心ある振る舞いをするけど、ほんとうは心のないロボット』って表現。この二つの表現はね、一種のだまし絵みたいなものなんだよ。
同著

とあった。心があるかのように見えるロボットがいたとして、そのロボットに心が無いとは言えないのである。なぜなら、人間だって、心があるかのように見えるだけだからである。

 いやいや、人間の場合は、脳があって、そこから信号が送られてて…と言えるかもしれない。しかし、それは精神過程を物理過程で説明しているのに過ぎないらしい。
 この辺、頭がこんがらがって、上手く自分の言葉で説明できないが…

 ともかく、心があるように思われるロボットが誕生した時点で、そのロボットにはある種の敬意を払う必要が生じるのである。

 我々は、保護された動物をみて可哀想と言うが、同じような感覚をロボットにも、いやむしろ、動物以上に感じなくてはいけないということか。

『ピノ:PINO』(村上たかし)


ピノ-それは、感情をもたないアンドロイドである。さまざまな現場で用いられてきた。動物実験においてもピノは働いていたが、実験中止を受け建物ごと破壊されることが決まる。そんな時、ピノは、指示にない動物たちを、自分の意思で逃した。これは、ピノに感情が芽生えたのか、機械の不具合なのか。一方、子供を亡くしたおばあちゃんのもとで、その子供の代わりとして過ごすピノは…。

 アンドロイドであるピノは、命令を受け、その通りに指示を実行する。一見すると、感情があるかのような会話も、膨大なデータから行うことができる。人々は、そこで感情を持たないものであると判断する。

 しかし、ピノはある条件のもとで、感情を得た。それが、生き物としての最期を迎えることを知ること、である。
 最期を迎えると知った時、ピノは命令とは別の、自分の意思を持つようになる。つまり、自我をもつ。

 この物語では、ピノに指示を出していた女は、ピノを破壊することが決まり、その実行操作をするまで、悲しさはありながらも、実行そのものを取り下げる様子はない。しかし、ピノが感情を持ったと知った時、それが適切なものだったのか迷うのである。

 やはり、そのものが感情を持つか否か、が重要な点であることがわかる。また、感情を持つ瞬間が、自身の最期を知る時、というのも興味深い。命の限りがあるからこそ、生き物として成立する。それは、生き物の定義にも繋がっていくのであろう。

 ロボットが生き物として存在するとき、それは人間や生き物とは何なのかを考えることに等しい。

 ただ、ピノが結局は、生き物とは異なる存在であることが物語の最後に再度提示されているように思う。分解されたり、闇市場に出回ったりした多くのピノたちを繋ぎ合わせ、再度ピノとして復活する。前のピノと同じ感情を、新たなピノは持っていないものの、繋ぎ合わせてピノとして再び生きる描写がされるのは、やはり人との違いに思えてならない。


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