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「ビックリハウス」終刊号

日航機が御巣鷹山に墜落し、プラザ合意で狂乱の時代への助走が始まった1985年。阪神タイガースの日本一で沸く頃に雑誌「ビックリハウス」が10年余の歴史を閉じた。南伸坊が「面白くっても大丈夫」といっていた80年代前半の気分をまるまる詰め込んだ投稿ベースのパロディ雑誌。終刊号だけは後生大事に取ってある。設立したのは榎本了壱、萩原朔美という元「天井桟敷」のヒトビト。「読者の上に読者を作らず、読者の下に編集者を作る」と表明して始まった。「読み専」ではあったものの、今でもアタマの中で言葉遊びが勝手に始まってしまうのはこういう雑誌があったからに他ならず、その罪は決して軽くはないのだ。

地球救世軍とは編集部のコト。この星にタネは蒔き終えたといって「宇宙への帰還」を果たす。イライラしているのは伝説の編集長・高橋章子。現在71歳、少し前にある企画を出版社に持ち込んだら「無名の人は売れない」と言われたとか。ツマンネー奴だなー。
「モシラ」は文字通り「もしも・・・だったら」の投稿。「ぴあ」の「はみだしYOUとPIA」のノリ?「ハジラ」は投稿規定に反するもしくは趣旨と離れた投稿をさらして戒めるコーナー。ちゃんと愛があるのだ。
ご存じ「ヘンタイよいこ新聞」。十のお約束「セイジョーよいこは、ゆっくりと、じょじょにヘンタイよいこをめざします」「ヘンタイわるいこは、なるべくすみやかに、ヘンタイよいこをめざします」「セイジョーわるいこは、ヘンタイよいこの生活をおびやかしてはいけません」
安西水丸画伯!「安西氏の上品で、知性をひけらかさないワケのワカラナサが満ち溢れ」ていて「品の良い本誌にこそ育まれたのだと言えよう」そこまで言うか。
「筆おろし塾」坊やいらっしゃい、そういうんじゃなくて。
ぜんぜんビッグじゃないYMO。他にも鈴木慶一や忌野清志郎などが誌面を賑わせていた。
そして表2の広告は原田知世「オーレックスCDプレーヤー」全然憶えていない。「私をスキーに連れていけ」とせがむのはこの2年後なのだ。

巻頭に「終刊号特別座談会」というのがあり、出席者は浅田彰、糸井重里、橋本治、そして萩原朔美、高橋章子となっている。ほかにもくだらないコーナーのオンパレードなのだが、みんな真剣にくだらなさに取り組んでる。脊髄反射のばか笑いとは違うのだ。もちろんこんなものに知性なんてありませんという「正しいご意見」もおありでしょうが。「24時間戦えますか」なんて時代の前に終刊したのはほんとうによかったと思う。

そういえばずっとずっと前に表紙のイラストを描いた鴨沢祐仁氏についてちょっと触れたことがあったことをたった今思い出した。そこでこの「ビックリハウス」にもうだうだ言っていたのだ。忘却とは忘れ去ることなり。レプス君は同じところにいまもいます。


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