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「聖なる場所に祝福を」

開演から何時間たっただろうか。夕暮れの気配の中、吉田拓郎が2回目のステージに立っている。現地で待ち合わせしたT氏と彼の友人G氏がビールを買ってきてくれた。全く別ルートで入手したにもかかわらず、30余りに区分けされたブロックの中から、よりによって同じブロックになってしまった大学時代の拓郎ファンの先輩たちを交え、僕たち夫婦は祝杯をあげる。と、聴こえてきたのは『友あり』、作詞は康珍化、まさに拓郎のためにあるような歌のことば。「飲め飲め友よ、まだガキでいい」、出来すぎのようなタイミングに、迷えるアラフィフたちの酒も進む。

2006年9月23日、今はつま恋リゾート彩の郷となったヤマハリゾートつま恋多目的広場に僕たちはいた。近づいてくる台風の進路に前日までやきもきさせられた「吉田拓郎&かぐや姫Concert in つま恋2006」は、青空の下、無事幕を開け、こうして飲んで、いや聴いている。

発売するや否やつま恋のホテルは満室となり、僕たち夫婦は少し離れた浜名湖畔の舘山寺温泉に投宿した。その宿も多くは翌日の「つま恋」目的の客だったようで、露天風呂で一緒になった男性も遠く福島から単身来たのだという。同病相憐れむ(?)のか、同じ穴の貉同士臭いを嗅ぎつけるのか、普段は露天風呂で見ず知らずの人と話すこともないのだが。聞くと今までもっぱらカーステレオで聴くばかりで、吉田拓郎の生歌を聴くのはこれが初めてとか(しかしクルマでは吉田拓郎以外は聴かないという。お気に入りは『人生を語らず』)。今頃どの辺りで生歌に酔いしれているのだろう。

あたりはすっかり暗い。マイクが2本置かれ、白いシャツの人影が下手から出てくる。と、最前列から大きなどよめきがあがった。中島みゆきの登場だ。「ほんとうかよ」完全なサプライズ。『永遠の嘘をついてくれ』吉田拓郎がうつむきかげんにギターをひく。直立不動で前を見据え歌う姿の神々しさは何だ。あの瞬間、つま恋は間違いなくこの稀代の歌姫に乗っ取られた。僕たちはこのシーンに遭遇するためにここに連れてこられたのではないかと。

アンコールは『聖なる場所に祝福を』。昔のように『人間なんて』で熱狂の渦で終わるようなことはもういらない。コンサートの冒頭で吉田拓郎は僕たちに「よく来たね」と言った。若かったあの頃からみんな色んなことがあったんだ。そして今「ここにいる」それだけでいいじゃないか。どこからともなく手渡し回収されていくゴミ袋。去り際、人がほぼ去ったその場所は、これからイベントが始まるのを待つかのように照明が芝生を美しく照らしていた。


瀬尾サイン

あくる日、帰途、富士川サービスエリアで思いがけない出来事が起きた。何人かのスタッフに囲まれた瀬尾一三氏を見かけたのだ。グルメと言われていた氏は、ジャージ姿でセルフサービスの「うどん」(多分)を啜っていた。なぜあの名プロデューサーがこんなところでしかもうどんを?と思いつつ、間違いないと確信し、一人食後のタバコを吸いに席を離れた瀬尾氏におそるおそる声をかけた。瀬尾氏は「いかにも私が瀬尾だが」(そんな言い方はしない)と答え、鋭い眼光で(ほんとうに鋭かった)「昨日の中島みゆきはどうだった。隠し通すのは大変だったんだ」と言って「昨日の日付の方がいいでしょ」と9/23と書いてサインをしてくれたのだ。

ロッキンジャパンの中止など、ライブを取り巻く環境はまだまだ厳しい。ただ、こんな「時の共有」はライブでしか決して得られない。


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