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便利さに駆逐される生活の柄

「お風呂が沸きました」と言われ、いそいそと服を脱いでバスルームの扉をあけると、そこには湯の張られていない浴槽が・・・ということが稀に(いや時折)ある。言うまでもなく排水の栓をしていないのが原因なのだが、我が家の妙齢(いや高齢か)のリンナイ嬢はそこまで気を配ってはくれない。教えてくれた貴女に罪はない。しょんぼりと栓をして再度湯を張り、上着を羽織ってしばし待つ。

パーキングの清算機が喋り始めた頃、いちいちうるさいと言ったら同僚に不思議な顔をされた。「言われなくてもわかってるわい」と鬱陶しかったのだが、いつの間にかこちらの落ち度でも「早く言ってよ」などと思うようになっている。会社から強制的にPHSを持たされた時には、どこにいても捕まえられるじゃないかとこの上なく嫌だったはずなのに、今じゃちょっとそこまでの外出にもスマホを忘れたことに気づいた時は、まるでパンツを履き忘れたみたいな頼りなさだ。

クルマの360度モニターは、死角のない上からの映像が狭い駐車場などで迅速かつ安全にナビゲートしてくれる。これとて初めは「こんなのに頼ると運転はどんどん下手になっていく」とつれなくしていたのだ。今では「目視は必須だが、衰えこそすれもう向上はしない運転技術を少しでも補助してくれるもの」としてもはやなくてはならないものとなりつつある。

便利はすぐに慣れる。「コンビニエントの何が悪い」と抗い難く誘惑の手を差し伸べる。あたかも便利は正義だと言うように。

朝のゴミ出し。ほんの2~3分の少しだけ面倒な「外出」。でもその面倒は、冬の凍てつく空気を、夏の猛る熱気の始まりを「感じる」大事な一日のスタートラインかも知れないのだ。

和田誠は装丁で本にバーコードを入れる事を嫌い、入れるなら帯にと強く主張した。デザインを蔑ろにして得られる便利さへの大きな疑問がそこにはあった。それをあとから知って家にある本(「セロニアス・モンクのいた風景」村上春樹訳)を見ると、ほんとだ帯にある。

不便を享受できないまま、便利だけを無自覚に受け入れて、果たしてどんな生活の柄(デザイン)を描けるか。歳を重ねるにつれ(肉体的にも精神的にも)横着はどんどん身についている。


見出しのイラストは「志磨こねこ・しまこねこ」さんの作品をお借りしました。



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