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「音」考

もうずいぶん昔、小淵沢の青空マーケットで買い求めたアフリカの民族楽器「カリンバ」。両手で持ち親指でピンをはじく。ひっそり閑とした所在ない昼下がりに、ふと戯れてみたりすると、その素朴な、というかどこか心もとなげな単音がしーんとした空気に小さな抵抗をしたようで微笑ましい。ジンバブエのショナ族は、この楽器で先祖や精霊に祈りを捧げ、雨乞いや病気治癒を祈ったという。究極の、もしくは原初のアンプラグド。

ショッピング街を歩くと、どの店も競うように拡声機の「呼び込み」に余念がない。まるでそれをしない店はやる気がないとでも思われるかのように。これは一方通行の音の集中砲火だ。攻撃的で暴力的な音のシャワーの間をにこやかに通りゆく人々は、すでに体の中に抗体が出来ているのだろう。もしくはその快感を得てしまったのか。これは、昔から好きだった「喧騒」とはちょっと違う。人、モノ、事が渾然一体となって作り上げられる「祝祭の空間」としての街の音はもうなくなってしまったんだろうか。

翻ってビーチは。海水浴などとはとんとご無沙汰になってしまったが。昔は塔の上に設置されたスピーカーから、休ませてはいけないとばかりに絶えず音楽が流されていた。負けじと海の家は音量マックスのカセットで対抗する。いくらサザンが好きでも、騒音のような劣悪な音質の「チャコの海岸物語」で波の音を消すなんて、ブラックジョーク以外の何物でもない。逗子市は海水浴場の音楽を含む規制の条例を出しているようだが、これが全国的な流れなのかはわからない。

日本人はなんて音に鈍感になってしまったんだろう。一方で自分以外の「ヒト」とりわけ子どもの声に対する異様なまでの嫌悪(かくいう自分も赤ん坊の泣き声は不得手なのだが、それはそれとして心得てはいる)。自治体にクレームを入れるに至っては何をか言わんや。拡声器などを通して耳に入る音には寛容な日本人、内容は脇において「そこでその音」への妥当性は考えない。これも無責任社会ニッポンのひとつの構図。はたして自分の五感は大丈夫か。耳を立てるより、耳をすまして確かめてみよう。

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