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とりあえず、アロハ

朝晩めっきり涼しくなって、衣替えの時期が近い。夏はシャツ一枚を羽織るだけでよかったが、これから日を追うごとに一枚一枚着こんでいくことを思うと気が重い。

毎日が日曜日(ちょっと待て、その言い方はもう時代にそぐわないゾ、休みのあり方はそれこそ多種多様だ。言葉は日々修正が必要なのだ)、もとい毎日が何曜日?になって、日々の装いに制約がなくなった。中学生の頃から、半世紀近くほぼジーンズ一辺倒できたので、今さら変える気はない。さして多くもないシャツの中からチョイスをしてその日の出で立ちが決まる。お手軽でもっとも気持ちが落ち着く。近くへの買い物も、遠出も、変わらない。スエットやジャージで過ごすという習慣はなかった。ご多聞にもれずファストファッションの恩恵にそれなりに預かっているわけだが、その問題点は(勉強不足もある)ここではさておき、毎日の服装の話。

「パンツをはいたサル」(80年代ニューアカブームを知っている身としてついこういう言い方を思いついてしまうのは悪いクセ。栗本慎一郎氏の考証と深い関係はありません)としては、服装は避けては通れないもの。どんなに「私は服装(ファッション)には興味がない」と言い張っても、誰だって自分の服装にそれぞれのコードを持っている。コードには自律もあれば他律もある。ファッションは常に世界を語り、変えていく。

話が大きくなってしまった。服装がやっかいなのは「隠すものであって、かつ晒すもの」だからじゃないか。例えば、自分は服を選ぶ時に、心のどこかでスクエア、あるいはシリアスな人に思われたくない、という意識が働いている(と思う)。これは隠すつもりでそんな自分の心性を見せているとも言えるわけで。気を使おうが使わなかろうが、服装はあなたを「映して」いる。

今年の誕生祝いに妻からアロハを一着いただいた。毎日が何曜日?の今夏は以前よりアロハを着る機会が増えたような気がする。アロハはエイジレスな夏の装いだ。多分先に述べた自分のしょーもない心性とも合致している。少しずつバリエーションを増やしていくのもいいかも知れない。これからの夏はとりあえず、アロハ。




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