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何でも書けるというわけではないnoteを始めとするSNSアカウント(書か(け)ないことの上に立脚することもある書く(べき)こと)

こんにちは、木月まことです。

今日も、やや雑記の類いになります。

まいにち更新のアカウントは増える一方という印象を受けますが、これを読んでるあなたは、書くことが泉のごとく湧き出るタイプでしょうか。それともノルマを設け無理やりにでもひねり出すタイプでしょうか。それとも書くことがないときは書かないタイプでしょうか。

何でも書けるわけではない云々…と聞くと、きっと、ああっ、最近あった幻冬舎と関連した一連の炎上劇か、NGTのメンバーの炎上劇とかに情報リテラシーとかの観点からよくある常識的一般論をぶつんでしょう?となるでしょうが、
いえいえ、とんでもございません。
わたくしなどは、今年の1月から始めたTwitterのプライベート趣味アカが早くも軽く炎上したりして、一般論的な情報リテラシーなんかを説ける有資格者じゃそもそもございません。
元来ややおっちょこちょいなので、怪我をしつついろいろ学んでいるというのが実際のところです。
怪我をする前に分かる…
これは多分10人に1人いるかの頭のいいひとです。


しかしクラスの全員が出木杉くんということはまずありません。
フツーの一般空間にはのび太がいて、スネ夫がいてジャイアンがいて、ドラえもんだけがなぜかいないのです(ドラえもんのすごいところのひとつは多分ここです。藤子不二雄は絶対にいないドラえもんという存在をつくりあげたのです。ドラえもんのいないドラえもんは修羅です)
実際多くの人は怪我をしています。
見城さんはどうでしょう?
NGTの加藤美南は?
最近の著名人の一連の炎上劇は、個人的には、ごく親しいひとや側近に近い身内しかまわりにいない飲み屋とかで(飲み屋とかは、誰が聞いてるかわかったもんじゃない危ない場所であることもしばしありますが)そういう飲み屋とかで身内にぼそっと呟くならありだったのかもしれないと思います。
いや、本来親しい間柄での内輪話にとどめておくべきだったはなしを気軽に誰が見てるか分からない空間につい放ってしまうのがSNSのこわいところなのかもしれません。
みなさん大小様々な怪我をしてSNSの使い方を学んでいくようです。
まぁ、怪我ですめばよかったかなという感じでしょう。
刺されて死んだりは悲しすぎます。
さて前置きが長くなってしまいましたが、今回のはなしは、そんな一般リテラシーみたいなこととは少しちがうはなしになります。

みなさまは自分ネタが多いひとでしょうか?
それとも直接自分のことではないネタがメインですか?
自分ネタで頻繁に更新できる人はこれはすごいと思います。
自分ネタで書くことが尽きないというのはエッセイスト向きか、または自己内観を得意(?)とする哲学・思想・心理学探求に向くタイプかもしれません。またはズバリ私小説作家に向くタイプかもしれません。
僕なんかは、わりかし退屈でありふれた日常を送っているため、自分ネタだとそんなに次から次へと書くことが湧き出てくるという感じでもありません。
またいい年して派遣バイトなんかをやってるもんですから、だいたい日常は数パターンの内に収まります。
この記事内でその詳細に触れるつもりはありませんが、それらを事実としてありのままに書こうとすればあっという間にネタは尽きるでしょう。
自分ネタでどこまでも引っぱれるというのはこれは特殊な才能なのかもしれません。
ただ、僕にはたまにですが、書くことというのはおそらく書けないことの上に逆説的に立脚してると思うこともあります。
たとえば、あなたがバイト先で新しく入ってきた人にかなりマジにときめいてしまったとします。多分ですが、あなたはSNS媒体にその成就してない恋愛(感情)を直截的に書くことはむずかしいハズなのです。書けるとしたら、誰か別の人にその人が奪われて過去形になってしまったときか、逆に見事成就して結婚して、または結婚したに等しい安定を手に入れたときかだと思います。
もしSNSに成就してない恋愛の事実レポートを載せてるとしたら、それは多分恋愛というより、エンタメ精神旺盛な突撃リポーターかなんかをやってるのかもしれず、その場合は突撃リポータとしての自己のほうが重要で、恋愛はサブになってると考えないと辻褄が合いません。そういう恋愛があってはいけないとは思いませんが、フツーの意味での恋愛とは大きくズレてると思います。
人生の突撃リポーターとはたとえば太宰治みたいな人で、僕は個人的には自己犠牲的な、またエンタメ精神旺盛な突撃リポーターは本来大好きなのです。
でもひとの書くことは、もしかすると書かないこと、あるいは書けないことの上に立脚していることもあるのではないかと思うこともあります。
あなたがもしSNSには直接書く気が起こらない恋愛なり何なりに人生で出会ったなら、あなたのこころの中はもしかすると豊かになり、逆説的に将来なにかもっと豊潤とでも呼べる豊かな何かを書ける可能性も芽生えているのかもしれません。
アウトプットの重要性が強調されています。反対はしません。
本職の作家を目指してたりするんであれば、もしかすると一日も休むべきではないのかもしれません。
ぼくも文章ではやく収入のある人にならないと…とかいった焦燥も正直あります。ネタに貪欲になってどんどん書かなきゃと思うこともしょっ中です。
毎日、あるいはほぼ毎日更新されてる他のnoterさんのアカウントで楽しみにしてるものも最近はいくつかあります。
でも何割かの人は、急ぎすぎてる印象すらあります。
「はやく結果を手に入れたいし、のんびりしてるとお前みたいになっちゃうからね」
「べつに急いでるわけではなく、とめどもなく出てくるんで、どんどん吐き出さないと大変なんだ。」
でも、たまにですけど、書くことというのは、書けないことの中にむしろ潜んでることもあるんだということ…
SNSにすぐアップはできない何か…
たとえば…うまく言えないけど…
バイト先のドアをあの人があけて入ってきた瞬間の、到底ツイートなんかはできないあの感じ…とか
LINEのアドレスを交換するときビミョーに手が震えてる自分とか…
そんなのをSNSで即時リポートなんて変ですよね?
「いまどきそんなのがあんのか?」
えっ?その種のものがわからないやつにものなんか書けないでしょ?
またはなにか打ちのめされてしまったとき…
ツイートなんかはする気も起らない何か…
それはしあわせ系のことでなくても不幸や苦痛に関することでもいいんです。
即時リポートが不可能ななにか…
そういうのが溜まっていくうちに、自分の中であるうねりが生まれることもあると思うんです。
方法論なんて何がよいのかは状況によりけりだから、ひたすらアウトプットでしか錬金されないものもあると思うんで、それで功を奏していればそれは正解なのでしょう。
SNSこそが生存の根拠だというんなら、SNSを見ない生活とか、そこでアウトプットしない生活は死んでるのと同義かもしれません。
実際、僕も派遣バイトととか家族生活よりSNSこそがリアルだと感じることもしばしあります。
SNSの興隆で、「早く言ったもん勝ちだ(早く表現したもの勝ちだ)」みたいな機運も高まってるのかもしれません。
でも、わたしは人の書くものは、その人がすぐには(あるいは、ひょっとすると一生)書けないことの上に立脚してる、あるいは花開いてることもあると思います。
または、なにを書かないかが書くことを決めてる場合もあると思います。

御一読ありがとうございました。

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