「大草原でSNSがバズる」-(心境小説的散文詩③)
平生、大自然に縁がない私は、ひょんなことから大学の仲間に
連れられ、キャンピングカーに乗って、某県にある大草原に
来ている
こんな自然の中に来てまで私はスマホを手放せない
絵になりそうな風景を見つけると、すかさず
スマホのシャッターを押し、加工アプリを駆使して
即座に、ここには来ていないリアルの知人に向けて
SNSにアップする。
こんな大自然の中でまで私はなんと忙しいことだろう
草の上に座り込むと、こともあろうに
私はTwitterを眺め始めた。
ハイジやペーターたちの時代と何とちがう
ことだろう
Twitterでは、あるインフルエンサーが久々にバズっていた。
今日では流石にバズるということに価値を置いてる人の数は減り、とちらかといえば、バズること自体にはあまり意味がない
というのが常識になりつつあるようだ。
青空を見上げて深呼吸してみる
既にそんなに熱くもない太陽光線を遮るように
そよ風が吹く
東京ではあんなに熱狂的に見つめていたインフルエンサーの
バズりも、この自然のなかでは、何だか巨大な象かなんかの
おならのようにも聞こえる
ぶぅお~うっ!
わぁ、くさっ、
とか何とか、スマホやSNSワールドを相対化しつつも
ハイジやペーターのようにスマホを持たないのも難しくなっている自分がいるのも確かだ。
が、しかし、今日一日だけでもインフルエンサーのバズりは
巨大な象のおならということにさせていただく
スマホなんかぶん投げて、私だけを愛してくれるイケメンの彼氏でも
いれば、二人でこの草原を思いっきり追いかけっこでもしたいと思う
こともなくはないのだが
結局のところ私はスマホを手に主に同性の友だちに向けて
SNS発信している
私たちはもはや自分の意思ではなく、構造的な何かに自分たちの行動を
決められてるような気すらした。
巨大な象のおならは、そういうものの象徴のひとつに思えた。
見上げると、青空が広がり、小鳥たちがさえずっている
わたしは左手にスマホを持っている
------(終わり)------
(あとがき)
つぶやきではない投稿では、初の1日3投稿になります。
自分はもしかするといわゆるメジャーな成功とかよりもハイジとペーターとおじいさんみたいな牧歌的世界を望んでいるのかもしれないと思うこともなくはないです。
ハイジとペーターみたいな世界を基準にしたら今日の世界は世界大戦こそおこってないけど狂気の世界に思えることもあります。
Twitterを始めとするSNSの世界もそう思えることがあります(そこが居心地よくて、そここそが棲み家だと感じてる人たちに対しては失礼千万なはなしでしょうが)
SNSワールドでのバズりを大自然の中で相対化してみようと思ったのですが、もはや私たちは大自然の中ですらスマホやSNSを手放せないのでしょうか。
SNSでどうすればバズるかとかどうすればフォロワーが増えるかといったことではなく、そんなことを考えてることが多いかもしれません。
御一読ありがとうございました。
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