適確な値付けが不可能になり、市場は崩壊し、そしてわたしたちの多くは目指すものがなくなった。(仮説)

こんにちは、木月まことです。

さて、これを読まれてるみなさまは目指すものがおありでしょうか?

それともなんとなく毎日が過ぎてしまってますか?

ストレスや苦痛はそれなりにあるんだけど、でもこれからどうしようというほどのものもなく漫然と歳月が流れてますか?

まだ1月ですからね。

そんなにはっきりした目標もまだ立たず、ぼちぼち始めるよ…なんて、エンジンのかからない人も多いかもしれません。

noteをやっている人は、多分その多くは目指すものがあるのでしょう。

でもそれは、いままで書いたことのないような良い文章を書くとか、できればそれを収入にするみたいなひどく漠然としたものではないでしょうか。

僕は、どちらかといえば、今日の社会一般は人々が目指すものを持ちにくい社会ではないかと、少なくとも今日現在はそう考えています。

昔だって、人々は自律的にかつ個人的に目指すものなんか持っていやしなっかたんだ。学校を出たらなんとなく就職して、そこでの日々の業務に邁進してただけなんだ。

そうかもしれません。

でも、僕は70年代生まれのやや古い人なんですけど、80年代くらいは、その当時の人々の多くも目指すものなんか特になかったのかもしれませんが、でもまだ、暮らしや人生は今よりよくなるんだって楽観があったと思うんです。

暮らしや人生がよくなるって言っても、それは消費生活とリンクしたものに過ぎないだろ?って言われればそうでしかないのかもしれません。

当時、テレビでGWに海外へ行く人はこんなに増えました、みたいな報道がよくあって、自分も人生や暮らしが将来もっとよくなるだろうと漠然と考えてました(それは大きくはずれて、国内旅行(移動)ですら簡単でない現実に実際は直面しています)

で、2000年をすぎると、スピリチュアルみたいなものが流行りだして、進歩した人は3次元という低い次元を超越してさらに高い次元へ行くんだみたいな説をあちこちで目にするようになりました。

3次元に拘泥しないっていうのは、エコではあると思うんですよ。

でも3次元を介さない現実でハイスピリチュアルの世界に没入なんて凡人にはムリじゃないでしょうか?

だって、3次元を超越したハイなレベルを目指そうとして3次元的な禁欲をしても、結局どこかで、やっぱり女子高生の足に目が行ってしまったり、コンビニで安いスイーツにかぶりついたりして3次元へ戻っていく場合が多いじゃないですか(少なくとも凡人はですよ)

でも、ただ、そうした3次元的な世界も、80年代くらいのバブル期までと違って、よくなる見通しに乏しく、目標を持ちにくいと思いませんか?

で、やっと本題ですけど、どうしてこんなに、わたしたちの多くは目標や目指すものを持ちにくくなってしまったんだろうということの理由の一端を、正月ボケがまだ収まらない自分のけつをムリにたたいて考えようというのがこの文の主旨です。

では、何故、人々の多くは目指すものや目標が持ちにくくなってしまったんでしょう?

こういうと、「目指すものや目標なんか下手に持ってしまうと、それに縛られて人生楽しくなくなる。それより日々起こる展開を素直に受け入れて、それを無邪気に楽しんだ方が人生良くなるよ」って反論が予想されますけど、たしかに、目指すものや目標があっても人生は結局虚しいかもしれません。でも、ただ毎日を起こる展開に受け身に身を委ねてじゃ、流されてるってことで、下手すれば人生が酔生夢死みたいな味気ないものになりかねません。
(それは結局、個人の価値観の問題でしょう)

元にはなしを戻します。

何故でしょう。

ひとつには、人の所作や仕事に対して適正な価格(価値)を付与するのが難しくなってしまったというのがあると思うんです。

むかしは、たとえば骨とう品とかにですけど、鑑定士みたいな人がいたわけですよ。
贋物はすぐにはじかれて、そのものに値する適正な値段を言い当てるわけです。
こういった、あるモノや仕事に対する、正当なジャッジの機構が様々な複合的な理由で今日壊滅に近い状態になっているのではないかと…

適性な値段(価値)を言い当てる機構が崩壊しているっていうことは、つまり客観軸がないっていうのはそれはそこが公正を欠いている場だということです。

そうすると、会社組織などでは、たまたまの当座のボスに気に入られることが自分の価値(値段)を上げる唯一の手段になります。そうすると処世術が悪い方へ流れていきます。みんな自分の立場(値段)を下げないようにそこで振る舞うようになります。

また、自由業的な分野では、相場による適正価格の決定が難しくなっているのですから、自分の仕事にいくらの値段をつけるかは、一般相場ではなく「オレ様」なのです。自信があれば、または博打に近いノリであれば不当に高い値段を、自信がなければ、不当に安いかタダ同然、もしくはほんとうのタダになるでしょう。

こういったメカニズムがどんどん進むと、適正な値段(価値)の付与機構はあるいは市場の値段決定機構は悪循環的に崩れていきます。

そうするとどうなるかといいますと、数字が意味を持たなくなる、あるいは数字はなにも物語らない社会になっていくのかもしれません。

これは数字が全てを物語るみたいな社会よりひょっとするとマシなのかもしれませんが、でも問題もあります。

人の仕事や労力に適性な価値(値段)が付与されず、数字がもはや何も物語らないという領域では、人々は、努力などをどのベクトルに向けていいのかが定まりにくく、力の矛先がその日その日によって変わりやすく、もし努力などをしなくてもそこそこの生活ができるなら、あるいは努力が微塵も価値を持たないんであれば、「努力」というのは意味をもたない世界に社会は変貌していくと思われます。「努力」などはアホらしいからそもそも誰もやらないという方向に流れていくかもしれません。

いや、そこまで極端にはならないかもしれません。

人は報われなくとも努力するのかもしれませんし、そういうものなのかもしれません。

ただ、もしかするとそこは、人の努力に適性な価値が付与されない無法地帯に近い荒野かもしれません。

じゃあ、それとは逆の、「努力」や人の仕事などの価値が正確に数字に反映されるような完全実力主義社会はそんなに素晴らしいのかという問題もあります。無論、そういった社会にも欠点はあります。そうすると、野球でいえばメジャーリーガーになれるような素質の持ち主とか家柄のよい人とか、先天的に恵まれてるひとに分のいい、恵まれた人だけが一方的に栄えていく社会になりかねず、それも確かに問題があります。

「自己承認欲求」という語は最近多くの人が見かけるでしょう。

noteやTwitterなどのアカウントの営為が自己承認欲求にどのくらい基づいているのかは個人によってまちまちでしょう。

ただ、もし自己承認の欲求を単純に満たしたいというんであれば、noteやTwitterなどのいわゆるアカウントは個人的にですが、その用をあまり満たさないのではないかと思います。というのは、いままで述べてきたような、人の仕事や労力に対する適正な価値の付与というのが様々な領域で崩れているというはなしの最たるもののひとつは、もしかすると、これらアカウントではないかと思うからです。もしこうした場で数字がもはや何も物語らないほど、価値付与の体系が崩れてるんであれば、あなたはその場で、たとえば投稿がバズったりして、「報われた!」と感じられますか?

それはアカウントで数字の結果が出てない君の個人的ひがみだろう?

絶対そうではないとは僕も自信がありませんし、かといって数字がアカウントの営為の最大目標だと考えてるわけじゃありません。

ただ、たまにアカウントって数字にあまり意味のない無法地帯に見えるときも正直あります。

それがもし、おもてなし的なニュアンスを含んだ、アカウント自体の演出にかかってるというなら、しかもそれがマネタイズにはなかなか結び付かないというんであれば、数字にこだわるのはひどく疲れるはなしだとも思います。

もし、数字的な価値付与体系が崩れてくると、人は「運8割」みたいに考えるかもしれません。

そうすると、全ては結局「運」なのだからと考えて、「運をよくする」みたいなことに入れ込んで、掃除や家具の配置などの風水や挨拶などの処世術など本来的じゃないところに力を注ぎます。いえ、掃除も風水も挨拶も、きっと全部意味のあることでしょう。しかし本来的じゃないことにのめりこんで結果に結びつかず疲弊してしまうと、次のマスメディアの指示を待つか、何をやっていいのか分からず、何もやる気がおこらず、「頑張らない方がうまくいく」というようなタイトルの本を本屋でみかけると、そうかもな、と考え、Twitterにたまに投稿して、あとは呆然と暮らしたりするのです。
あるいは日々、その日その日の気分によってばらばらな方向へ力を入れるのです。こういった傾向は少しはなしがそれますが異性関係にたいしてもそうなる場合があるかもしれません。

数字がなんの意味をもつのかよく分からない世界も気味が悪いですよね。

もし結果が出ても、「たまたまだろ」みたいになって、喜んでいいのかよくわかんないですよね。

それならまだ、TOEICとか数字に根拠がありそうな世界の方がマシに思えますよね。

といったわけで、長くなってしまいましたが、人々の仕事や労力に正当なまたは適正な値段をつける機構が崩壊してしまいますと、報いがなくとも続けられるという人か、値段ゼロでも続けられるモチベーションを持ってる人以外は淘汰されて、短期の挫折を繰り返す人が増加し、人々はどのベクトルに自分の力を向けていいのか分からなくなるんじゃないかということです。

というところで本日は終わりにしたいと思います。


(あとがき)問題点の指摘や分析とかじゃなくて、ビジョンを示せみたいなことをいってくる人もいるんですけど、そりゃあ、スティーブ・ジョブズやマークザッカーバーグみたいに次のビジョンをつくる人の方がえらいに決まってますよ。でも、それは自分の資質や器には合わないし、問題点の指摘や分析だって全く意味がないわけじゃないと思うんです。もちろん僕の見方が唯一ではないし、ひょっとしたら誤ってるかもしれませんけど、でもそういう営為にもきっと意味があるだろうといまのところは考えてこのような文章を書いています。いろいろ考えていきたいと考えています。

御一読ありがとうございました。

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