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なぜ「頑張るな」みたいな価値観が増え始めたか?

こんにちは、木月まことです。

最近、「頑張らないほうが上手くいく」みたいな価値観が自己啓発とかウツ病に関した本などで唱えられています。

まぁ、ウツ病の場合はこれは病気なのですから頑張るより休む、またはペースを落とすのが正解な場合もあるでしょう(そうでない場合もあるでしょう)

では特に病気というわけでもない人にまで頑張らない文化(?)とでもいうようなものが蔓延しているように見えるのは何故でしょう?

もちろん個人が頑張ったりしないのはまったく個人の自由であり、頑張らないで飄々と生きるのがむしろ持ち味の人もいるのですからそれはまったく個人の自由なのです。

しかし何故社会一般にここまで頑張りが否定されてしまったのでしょう。
どうして世の中はここまでシラケてしまったのでしょう。

べつに僕のようなものが解説しなくても今さらという人も多いでしょうが、それを承知で今一度状況を整理するためまとめてみると、それは資本主義社会の今日的状況によるでしょう。

わたしたちの頑張りはその多くは残念ながらというか当たり前なのかもしれませんが、その頑張りの多くは報酬を前提としているのです。

画家のゴッホのような状態でどこまでも頑張れる人はかなり少数派でしょう。

わたしたちの多くは頑張りの見返りとして報酬を欲しがるさもしい人なのです。

短期の報酬は捨てているという人は長期視野でものごとを見ている人でしょう。しかしこれだけ混沌としてあっという間に様々なものが古くなってしまい社会の流動もはげしい今日的状況においては長期視野がなかなか立たない人も多いでしょう。

そうすると今日生産社会に身を置いている人の多くは長期の視点を持てず、目先の状況に右往左往するしかない近視眼的な人が増えているともみれます。

さてでは個人ではなく社会一般の経済社会の状況はどうでしょう。

第二次世界大戦で壊滅的打撃を受けた日本はしかし、終戦を機に経済は登り坂一辺倒でした。すくなくともあの時までは(もちろんバブルの崩壊です)
バブルの崩壊までは登り坂でした。特に米国を始めとする海外制覇による外貨の獲得は日本人の暮らしをよくすることに大きく貢献しました。
この海外制覇には色々なジャンルがありますが、1番分かりやすいのはトヨタを始めとする自動車産業によるそれでしょう。
しかし国際経済での円の価値の上昇とともに海外進出はそれほど日本人を潤わさなくなってきます。
固定レート時代は1ドルが360円でしたが、いまでは海外進出で1ドル売り上げがたっても100円前後の儲けにしかならないのです。
単純計算で海外進出によるある労力でのそれに対する報酬は昔の3分の1以下に下がってしまっているんです。

70年代か80年代くらいまでにあったアメリカンドリームというのはプロ野球選手の大リーグいきとかを除くともはやなんの事かピンとこない人も多いでしょう。

アメリカはやっぱり先進国でしょう。
これはアメリカが凋落して日本の地位が上がったからということではないと思います。
たとえはグーグルやFacebookに匹敵するインフラが日本から生まれると考える人は少ないでしょう。
アメリカではなく中国も一緒です。
アリババやファーウェイ、テンセントに匹敵する企業が日本から生まれると考えてる人は少ないでしょう。
LINEのようなプラットフォームも日本ではなく韓国発ですし、TOEICみたいな英語試験も確か韓国で生まれたものです。

日本が生み出すものは主幹産業やインフラ的なものより、つまりひとりのボスとその下のチームワークが生み出すものは何らかの理由でやや下火になり、国際社会で取り上げられるものは、それよりアニメやマンガ、映画など、またはプロアスリートなど個人的活躍によって生み出されたものか、または小規模なボランティアくらいになってしまっているのかもしれません。

物をつくる企業の多くは、生産拠点が海外に移ってしまっているため、ある企業の総従業員の構成はアジアなどの国の労働者が半分以上を占めている会社すらあるでしょう。
生産現場に携わってる人にほとんど日本人がいなくて、またほとんど関わってすらいなければ、その会社の日本人は自社への所属に誇りは持ちにくいかもしれません。生産拠点が全部アジアにあって外国人が生産してるんであれば、その会社のごくわずかの日本人が東京でやる忘年会は幾分シラケたものになっても不思議はありません。

こうして日本の国際競争力は文化人やアスリートを除くと下火になりました(これは僕個人の見解です)

日本は全体としてはバブルの頃までに稼いだ富がまだあるのかもしれません(公的財政部門はしかし大赤字で、国民ひとりあたり確か600万円超の赤字になっています)

こういった企業を中心とする国際競争力の低下は、そこに属する従業員の所得の低下をもたらしています。

よくバブル世代はガツガツしてる人が多いともいいますが、それはその世代は頑張りがことごとく好結果に結びついたからだと思います。

しかしその後のバブルの崩壊で、証券会社などか倒産し銀行も貸し出しを渋るようになり、金のまわりが悪くなると、倒産する会社も増えたのです。

こういった過程を経て人々の頑張りは、少なくとも経済的な見返りは望みにくい人が増えたのです。
また会社などでも、下手に熱く議論を交わすより言われた通りにやった方が得策みたいな場面が増えたのです。
こういったムードの中では頑張る人は悪い意味で浮いてしまい、集団の中では立場が悪化しかねません。

また労働の構成も昭和の頃とはかなり変わっています。ITのエンジニアとかプログラマーだとか超難しい職種か、人を相手にする、ストレスが多い割には稼げないサービス業種か、本当の単純労働に分化しています。あとのふたつは頑張ってもほどほどにやっても結果的な状況にはそんなに違いはうまれないかもしれません。(ITのエンジニアやプログラマーは頑張ってなれるようなものかどうかは疑問の余地がありますし、一般サービス業や単純労働の多くは頑張れば頑張っただけ報酬に直結するかはビミョーなところです。頑張れば頑張っただけ会社や社会をよくすることにつながればまだ救われるかもしれませんが、会社や社会はほとんどよくならず、かえって搾取の構図を促進する場合もないとはいえません。
もちろん現世での見返りは度外視というのは精神美的ではありますが、実践が可能な人は少数派かもしれません)

では、日本人はもう頑張らなくてよいのか?
そうとも言い難いでしょう。
そうすると、先ほども言ったように個人としての文化人やアスリートの活躍が目立つようになり、それ以外ではグーグル、Facebook、テンセント、ファーウェイ、LINE、TOEIC、日本には外国産のものばかりが溢れるようになってしまうかもしれません。

しばらくは日本の財力でこういったものと提携を結んだり買収や合併で乗り切れるでしょう。

しかし何も生み出さない状況があまりに長く続くとどうなるでしょう?

では日本人はやっぱり頑張るべきなのか?
やみくもに頑張ると空回りして、ウツ病、その他生活習慣病になるかもしれません。はたまた自殺などにつながりかねません。

個人レベルでは休む必要がある人、ペースを落とす必要がある人はもちろんいるでしょう。
しかしこの状況でひたすら無為を決め込んでいいのかどうかもまた疑問です。

しかし行政が「日本は斜陽化しているのだから、もっと頑張るべきだ」と音頭をとれば、玉砕を国民に強要した戦中の日本と似たようなものになってしまいますので難しいところです。

これを読んでるあなたが、もっと頑張るべきなのか、こころや身体をかばってほどほどにすべきなのかまではわたしには分かりません。

しかし「頑張らない方がよい」みたいな価値観が増えてる一端には、バブル崩壊から今日までの経済社会の流れと今日的状況も関係してると思います。
ごくフツーの頑張りが、経済的な報酬に、少なくとも短期的には結びつきにくい状況が一般的になっています。
無為を決め込むのか、本でも読んで勉強するのか、稼ぐことに身を費やすのか、好きなことをやるのか、人のため社会のためのボランティアをやるのかはまったく個人の自由に委ねられているのでしょう。
しかし「頑張らない文化」とでもいうものの拡大にはそういう社会状況にもよるでしょうし、うつ病や自殺(やはたまた他傷・他害)の増加とも関係しているのかもしれません。

ちょっとまとまりがつきにくくなってしまいましが今日はこれで終わりにします。

御一読ありがとうございました。

(追記)もちろん純粋に環境問題的な観点から人間がプラスの活動をすればCO2の排出が増加するといった問題もありますが、本来人間が排出するくらいのCO2でしたら草木などの植物が光合成によって吸収するハズですし、もし人間やその活動が排出するCO2が今日地球にある草木ではその吸収が到底足りないとしたとしても、じゃあ人間のすくなくとも半分くらいは禅僧みたいに一日中坐禅でも組んで大人しくしてるのが正しいのでしょうか?仮にそれが可能だったとしても誰がその一日中大人しくしてるひとの生活を支えるのでしょう。
僧侶なら托鉢や賽銭、講演、葬儀などにより財源が確保できるでしょうが、一般の人にそれは実際的でしょうか?
ちょっとはなしがさらにややこしくなる追記をつけてしまいましたが、環境問題に対する人間の活動についてはそんな風に考えています。

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