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意見を言うことの因果

もしAさんの意見がまわりのBさんやCさんと全く同じものであれば、Aさんは自分の意見を発表したり主張したりということは考えにくい。するとAさんが個人的意見を個人的に開陳するということは即ち既存の意見に対する違和が立脚点であることも多い。
たとえれば40人生徒がいる教室の中で裸を晒すのと似ている。
肉体的な裸を晒すんであれば、そこに生じるのは(性的な)羞恥心だけかもしれない。
しかし教室で自分の意見を開陳したときのというのは、自分が圧倒的なクラス番長とかでない限り、何がしかの恐怖を伴う緊張が生じるとでもいえば、何割かの人は学生時代のクラスルームでの経験を思い出すんじゃないだろうか。(もちろんこういったことには個人差があるだろうから、そんなの全く感じたこともないという人もいるだろう)


クラスルームで自主的に挙手して意見を開陳する人というのは大体メンバーが決まっていて、私がそのひとりだったことは一度もなかったので、意見を開陳するハメになったときはビミョーにだが空々しい緊張が身体を見舞った記憶がある。
意見を発表するというのは、ジョークネタでウケを狙うのでない限り、本来的に何がしかの緊張を伴うものだ。
少なくともリラックスしてるのはどちらかといえばおかしい。
クラスの半分以上を味方につけている自信があるとか、味方などは特にないが、他者に全く屈しない強固な性格の持ち主であるとか言うんでない限り、意見の開陳は本来何がしかの緊張を伴うものだ。
「愛が全てさ」と言ってみたところで、人類がひとつにまとまったりはしないことは容易に理解されるだろう。
私たちは世界がコトわけされることを承知で言葉を放ち、またコトわけされるのを防ぐために何も喋らないほどには賢くない。
「あなたを愛している」という言葉は宗教聖人でない限り、そんなに誰にでも使える言葉ではない。
誰にとっても鼻つまみ者とか、こいつだけは嫌いだという人はいるだろうし、上述の言葉は配偶者とか子息どまり…いや、そういう人たちにも放たれないことも多いだろう。
カリスマパフォーマーならステージ上から「君たちを愛している」と叫ぶこともできるだろうが、それもせいぜい観客席にいる人止まりである。
普通のひとには「愛している」という言葉すら、そんなに便利なものではないと分かったところで、では何故、人は言葉を放つのだろう。
私たちの世界に何の問題も生じないのならば、人は言葉を用事的に使うか、純粋に戯れなどのコミュニケーションにしか使われないのかもしれない。
では何故、人々は意見などを開陳するのだろう。
それは先ほども言った通り、ある切迫した動機、既存の何かに対する違和や苦痛である。
鋭敏な意見や言葉を生んだ人の生存環境をあとで調べてみると痛々しい環境が浮かび上がってくる。新約聖書のマタイ伝を読めばキリストの置かれていた痛々しい状況が伝わってくるし、そこまでいかなくとも、ドストエフスキーや太宰治など昔の文学者の生存環境もかなり痛々しい。
ある種の言葉は、そういう環境から生まれてくるものなのかもしれない。
しかし、痛々しい環境がありさえすればそういう言葉が生まれてくるというものでは無論ない。
ほんとうの賢者は痛々しい環境でも、ひょっとすると何も言葉を発さないのかもしれないが、しかし、完全に唖のように黙っている賢者は隣人とどのようにつながれるだろうか?
もちろん孤独な老人は、その苦痛をだれにも語れずにいるのかもしれないが、ここで考察したいのは言葉を発する意味についてであって、それすら叶わない状況の人をどうすべきかではないので一旦わきに置いておくとして、はなしを元に戻すと、そう考えていくと、言葉を発するというのは、既存の現実の何らかのファクターに対する違和や苦痛を基盤にしながら、それでも誰かとつながろうとする試みなのかもしれない。
そのつながろうとする相手は苦痛の原因になっている相手のこともあるだろう。
クラスルームでする意見の開陳は、その動機は先生に尋ねられたから仕方なくかもしれないが、それ以外の場所で為される意見の開陳は、誰かしらそれを聞いてくれる人がいるハズ、あるいはつながれるハズということを前提にしてないことは少ないだろう。だれも読んでいないかもしれないインターネット上の空間に於いて為されるものについても同様だ。
慰安婦達の証言にせよ、反原発の主張にせよ、誰かしらそれを聞いてくれる人がいることを前提にしている。
意見の開陳は、すると多くはマイナーな立場から為される。
メジャーチームやメジャー党の成員として大きな充足をしていれば、意見の開陳の動機は普通希薄なはずである。
意見の開陳が現実に対する違和や苦痛に立脚しているのなら、それは放った瞬間にアンチが生じる潜在可能性がある。
つまり自己主張をしたり、自分の意見を開陳したりといった行為は、自我が強くなかったり、味方が少なければ返り矢が飛んでくる被害妄想や猜疑に捉われることもあるのだ。(当たり前ですかね)
SNSなどの情報通信手段が発達している今日では、それが炎上などの目に見える形で現実化することもある。
私は、noteを始めたころの主要な悩みは純粋にダッシュボード的なことであったが、次の段階へ来ると別なものがこれに加わった。
それは誰かに苦痛を与える可能性である(そんなこと今さら気づいたんけ?と言わないでくださいね)
表現活動である限り誰にとっても苦痛でないというものは少ないだろうし、またそうであるほうが素晴らしいとは一概に言えないだろうが、noteのような空間では、他者の表現に萎えたり、あるいは多少の怒りを感じたことはあるでしょうし、それは逆のこともまたいえるわけで、自分の表現が誰かを萎えさせたり怒らせてしまうこともあるでしょう。
またこういったSNSの要素を持つプラットフォームでは、♡数やフォロワー数といった序列もあり、また、♡ボタンやコメントも何かを誤ってしまうと、まずいことにならないとも言い切れない。
でも、そこで生じる苦痛を、苦痛を受ける可能性と苦痛を与えてしまう可能性をゼロにしたいというんであれば、究極無人島のようなところで生息するしかないのかもしれない。それまたそれで難しいはなしだろう。
僕たちは、はりきって意見を開陳し、無邪気に表現活動をしているのかもしれないが、意見を開陳したり表現活動をしたりといったことは、常に、そういった可能性と隣合わせである。
慰安婦の証言とか反原発の訴えとか、止むにやまれぬ動機に端を発しているものですら、そんなことには興味も関心もないという多数の人から「うっせ!」というアンチの矢が飛んでくるかもしれない。
僕は意見を言うことの因果に軽く脅えながら、noteを始めてから一年経ってないというのに、また記事の閲覧者も多い方では全然ないのにもかかわらず、早くも軽く足元がだらしなくよろけている。
僕は、全然動じない人の強さを多少羨み、またそこまで強くないのだが友達や味方は沢山いるよという人をまた多少羨みながら、でも、ある切羽詰まった動機を頼りにこの記事をはじめとする幾つかの記事を書いている。僕にだってnoteに友達のひとりやふたりいるよと勝手にそう信じていながら、でも書くときは一人じゃないのかと自省しつつ、自分の見つけた何かが他の誰かに届くことを願って。


(あとがき)一月はじつはnoteの記事の作成に関しては多産で、下書きはヘッダー画像までつけてあとはタグ付けして投稿ボタンを押すのみの記事が7記事あったのですが、陽の目をみたのは3記事という結果になりました。
他者の書いた記事との兼ね合いとか考えて、弱気の虫にとりつかれてしまったり、なんか変な駆け引きをしてしまったんですね。その結果完成した記事を4つ削除してしまいました。チョー弱気になりました。べつに、僕は、今のところ炎上したわけでも辛辣なコメントをもらったわけでも何でもないんですが、独り相撲的に不安が空回りして勝手に半分自爆してしまったわけです。その一方、ツイッターで完全プライベート仕様の趣味アカを始動させたのですが、そっちがちょっと面白くていれこんでしまい、noteからは気持ちが離れちゃったんですね。で、それらの報いか、一月の月間ビュートータルは、それまでの平均の半分を割ってしまったんです。で、悪循環的にnoteにエンジンがかからなくなっちゃたんです。…あ、いや、まぁそんなことはどうでもいいんですけど、でも、その最近始めたツイッターの趣味アカ含めてnoteや不特定多数向けのアカウントを去年からスタートさせて、結局、たまに考えるのは今回の記事のようなことだったりします。別に弱気になってる僕を個人的に励ましてもらいたいというわけでもなく、ただアカウントをやっていく上での悩みや、そこから派生した考えごとを単純に書き記しておこうと思った次第です。
むかしいたような鬼編集者であれば、「貴様のようなやつは、やめちまえ!」と一喝されたでしょうが、いやいや、弱気になることはありますけど、まだまだ、やっていきますよ。

御一読ありがとうございました。


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