終戦の日と第二次大戦考
こんにちは、木月まことです。
またまた若い人にスルーされやすそうなタイトルをつけてしまいましたが、
第二次大戦が起こった理由を即答できる人ってどのくらいいるでしょう?
占いとかスピリチュアルの見地からは、20世紀(前半)は戦争による学びの時期で帝国主義による争いは避けられなかったみたいな意見もどっかで聞いたことがあります。
でもそれだと、運命論になってしまい、特攻出撃やアウシュビッツの悲劇は避けられなかったというはなしになってしまいます。
無論そうでないとも言い切れません。
アラフィフのわたしが若い頃、80年代くらいはまだ戦争による悲劇の反動期をひきずっており、学術の世界では「ヒトラー(のような人物)を警戒せよ」「全体主義を警戒せよ」「独裁者に気をつけろ」「排外主義に気をつけろ」「軍国主義を疑え」みたいな言論にあふれていて、わたしもそれを結構真に受けているタイプでした。
いや、いまもそれらの考え方を卒業したというわけではなく、ある程度まではそれらの見方を引きずっています。
ただ、それらの考え方にその後の歳月による思考の積み重ねで、多少は疑問も生じたというのが正直なところです。
悲劇には警戒すべき、恐れるべき特定の悪玉が存在するのです。
それらのわかりやすい権化が、ヒトラーだったり軍部ファシズムだったりするのです。
特定の悪玉が外部に存在すれば、わたしたちの精神衛生には都合がよいでしょう。
悪玉ではない善人のネットワークがつくれるからです。
ところが歴史を子細に眺めると、いわゆる悪玉という存在を妄信するのも難しいというのが2000年以降のひとつの流れだと思います。
今日の歴史の把握では、ヒトラー・ナチスの一連の悲劇は、それ以前の第一次世界大戦の戦後処理ともいえる戦勝国によるベルサイユ条約がその呼び水になってるという見方も存在します。
ベルサイユ条約によってドイツは事実上返せない負債を背負ってしまいます。
ヒトラーというのは、そのベルサイユ条約で英・仏などによって背負わされた絶望的負債を一気に解決してくれる(ように思わせた)ヒーローだったのです。
そうすると、問題はヒトラーというひとりの男というより、ベルサイユ条約によってつくられた英・仏・独のいびつな国際状況だったという見方も可能です。
もちろんこんな弁護は今日を生きてるドイツの人々に何の慰めにもならないでしょう。
ドイツのひとにこんな理屈をはなせば、「いや、悪いのはやっぱりヒトラー・ナチズムであり、いけないことはいけないことです」という感じで倫理の潔癖を表現する人の方が多いような気がします。
いまの理屈も反駁の余地は沢山あります
「状況や環境のせいにしてはいかんよ、きみ!どんな絶望的負債を抱えようとモラルに反するやり方はやっぱりいかん!」
という意見もでてくるでしょう。
それもひとつの正しい考え方でしょう。
しかし状況因がヒトラー・ナチスの呼び水になったという状況論も全否定まではできないと思います。
ドイツのはなしはこのくらいにして、終戦の日なのだから日本のはなしをしましょうか。
さて、日本に関しては、これは多少私個人の私論っぽくなってしまい、歴史の史実に詳しい人につこっまれる可能性なきにしもあらずですが
日中戦争と太平洋戦争の計15年の戦争の呼び水のひとつは、5.15事件と2.26事件でしょう。
5.15事件とは、あの「話せば分かる」と有名なセリフを言った犬養毅首相に、青年将校が「問答無用」と射殺してしまった事件で
2.26事件とは、大雪の降った日に青年将校たちが大臣たちを武力で一掃してしまった軍部クーデターです。
若い頃のわたしは、とにかくこのあたりから敗戦までは、軍部がいかんと考えてる人間でした。
しかしその後に得た様々な知識で多少そういった見方も変化を蒙りました。
まず2.26事件のあたりの日本経済はどちらかといえば繁栄を謳歌してました。
ただ、農村の貧困を除くという条件がつきます。
繁栄している都心部の経済をよそに、農村を始めとする貧困は放っておかれたのです。
ときの政府の手も、田舎の農村までは届かなかったのかもしれません。
経済優先の政策(それ自体は間違いでなかったかもしれませんが)によって軍部はあたまを抑え込まれます。
抑え込まれた軍部のストレスは主に青年将校を圧迫します。
圧迫された青年将校に、政府に放っておかれてる農村の貧困という事柄が反政府的な動きに油を注ぎます。
ついに、日本史上、忠臣蔵級の反逆が決行されてしまいます。
それ自体も非常に悩ましいことでしたが
もう一つの不幸は
この軍部による大臣一掃クーデターを呼び水に、軍部をけん制する外部存在がなくなっていくことでした。
外部によるけん制を一切受けない
これほど自由で素晴らしい状況はないように思えますが
しかしこの一見軍部に非常に都合がよい状況の成立は、最終的に軍部の迷走と暴走につながっていきます。
政党政治は終わってしまい、軍部大臣と首相は兼任されます。
内閣が軍部をコントロールするのではなく、軍部がすなわち内閣になってしまいます。
太平洋戦争開始時の首相東条英機はどちらかといえば、高まる開戦ムードを押さえる切り札として首相に推挙されました。
しかし開戦はさけられなかったのです。
こうしてみてくると分かりやすい悪玉はどこにいるのだろうという気がしてきます。
あるひとつの抗しようのない流れに翻弄されたという見方もできます。
もちろんこのような意見も、沖縄での玉砕戦の生き残り当事者からは猛反発を受けるかもしれません。
「軍部はいかん、軍部はいかん、とにかく連中は全部いかん」という叫びを助長するかもしれません。
わたしは、生き証人がほとんどいなくなったのをいいことに何かをねじまげようとしてるわけじゃありません。
ただ、2.26事件より前に農村の貧困に手が差しのべられてればみたいな、意味があるのかどうかわからないタラればを考えることはあります。
ただ、ときの政府にもマンパワー的な限界はあるでしょうし、すべてはなるようにしかならなかったという見方もあるでしょう。
結局、自分の意見としては、警戒すべき恐るべき悪玉などは存在するのか、もし仮にヒトラーのような分かりやすい悪玉がみつかったとしても、それだって状況や環境がひとつの呼び水をつくっていたのではないかと考えることもあるということです。
戦後ってもしかすると終わったわけではないのかなという気がすることもあります。
貧困はどう考えても拡大してるようですし、SNSやネットの世界も様々なストレスを生んでます。
何となく大変な時代になりそうな気もします。
わたしは、バブルの頃の消費に浮かれてた時代も実体験的に知っているので、今日の様なネットにまつわる悩みも収入が少なすぎる悩みもなかったころが正直懐かしいこともあります。
今日は第二次大戦のまったく個人的解釈のはなしをしましたが、なんで僕がそのあたりについて考えてるのかというと、戦争オタクの類いだからではなく、この種の悲劇を避けたいという願いがあるからです。もちろん誰かの願いがたとえ善意に基づいていても結果が真逆だったら意味ないんで、そこは注意深くあるべきだと思います。
「話せば分かる」
「問答無用」
「放っておかれた農村の貧困とクーデター」
「負債を一気に解決するヒーロー」
「外部の牽制を受けない巨大な力と暴走」
「流れに巻かれてしまう個人」
今日でも完全に他人事じゃないかもしれません。
ただ、そういうのって人の力でどうにかできるの?
っていう疑問もあるでしょうし
いや、注意深くなればある種の悲劇は防げるっていう考えもあるでしょう。
どっちが正解かよくわかりませんが
100%なるようにしかならないと超人的な達観を手に入れてるなら、どうしてこのような文章を書くのでしょう。
書くという行為はある堂々巡りのループから抜け出せないと感じることもあります。
終戦の日なので、またお盆でもあるので、あたまを冷やして、二年前に亡くなった父をはじめ亡き霊に静かに手を合わせようかな…
と、読者にはどうでもいいことを書いてしまいましたが、
警戒すべき恐るべき悪玉は存在するのか?
仮にいたとしても、状況や環境がその呼び水になっていることはないのか?
という観点から、まったく私論的に第二次大戦を振り返ってみました。
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