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権力というより煩悩に支配されている僕ら

仏陀が教えてくれたことがあるとするなら、俗人は生きているうちに解脱なんかはできやしないのではないかということだ。

解脱というような観念こそが迷妄ではないのか

人は生きているうちに解脱なんかしたりするものか?

老いた人が、しばし悩みから解放されてるように見えるのは、それは解脱が達成されたからというより、悩んだりする気力・体力がもうないためかもしれない。

いや、多分、人は老いてもしばし悩みから解放されないのだろう。

住んでる団地のとなりの高齢の方が寝たきりになったと聞いた。

先月、買い物に行くとき、びっこを引いて歩いているのを目撃した。

先月までは、どうにか歩けたのに、いまは寝たきりなんて、そんなに心中穏やかでないだろう。

もちろん、僕の勝手な憶測にすぎないが

団地の役員とかを積極的に引き受ける外向的な方だった。


多分、人間は死ぬまで、解脱なんかしやしないのだ。

もう、結婚なんかはしないで生きる

そう決意した人も、その決意がやすらかな解脱につながるわけじゃない。

65歳になったとき、独り身というのはこわいことなのではないかと想像することもあるだろうし

性的煩悩に苦しむこともあるだろう。

僕は、プロミュージシャンになるという煩悩からは、どうやら解放された。

しかし、代わりに選んだ文筆も、それによって投稿を始めてみると、これが、ものすごい煩悩の世界だった。

PVや「いいね」数(スキ数)やフォロワー数みたいなことが一度は煩悩を引き起こすだろう。

誰が「いいね」をくれたとかくれない、あるいは、誰がコメントをくれたとかくれないみたいなことが煩悩の種になることもあるだろう。

あまりに世の中が、煩悩だらけで苦しいので、人は、それを軽減する様々な思い付きをする。

たとえば、飲み会やバーベキューなどを企画する。

しかし、これも、今日だと投稿空間にアップすると、「わたしは呼ばれなかった」みたいな複雑な問題をあっちこっちにばら蒔くことになりかねない。
(昔は、こういったことをSNSにアップしなかったので、この種の面倒はお起こらなかった)

Twitterで「今日も朝から、卵ぶっかけごはんがうま~い」などと写真つきで悪意なくツイートすると、昨日失恋したばかりの人には右ストレートになってしまうこともある。

しかし、そこまで配慮してると、文字通りなにも言えない。

投稿の空間もやはり煩悩が無数に渦巻いている。

はっきりしているのは、僕たちの世界に解脱なんかはなく、解決なんかもおそらくないのではないかということだ。

解決なんかはありはしない空間に理不尽にも投げ入れられた僕たちには、誰も解決なんかは提示できないので、

たとえば、つぎの時代は頑張らないのがよい、とか抽象的で曖昧な指針を示す。

この、頑張らない○☓というフレーズは、数年前、日本で超売れした某自己啓発書のタイトルとも関係しているが、波紋を呼んでいる。

いや、それはともかく

解脱と解決を性急に求める僕たちの前には、様々な救済案が提示される。

それの善意を理解し得ない自分ではない。

しかし、結局、人の世は煩悩が渦巻いている。

凡人でしかない僕たちは、もちろん、煩悩の欲求通りには生きれない。

そこで、家の庭か、近くの公園で、線香花火なんかをやってみたり

長月の十五夜に、お団子を添えて月を眺めたりして気持ちを慰めている。

僕たちが、明日も煩悩にもみくちゃにされるだろうことは分かり切ったことだから


(製作データー)
書き始め:2021年6月6日午後17時45分

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