「四十惑に吹くすきま風」ー(心境小説的散文詩①)
四十を過ぎれば
自分の不甲斐なさに肩を落とす機会は増える一方だ。
昨日は「君たちには失望した」と
まだ十代の革命家に恫喝されたりした。
若い革命家は「世界は変わるはず」
「やればできるはず」「傍観は罪」
というメッセージを与え、同世代の人や
倍以上離れた、ひょっとすると、私より
上の世代にも希望を与えていた。
私はと言えば、そのさらに前日、
会社にいる私のはなしを聞いてくれそうな
若者を2人つかまえて、焼きとりを出す
立ち飲み酒屋で、ビールの入った
コップを傾けながら、グチともつかぬ
だらしのないはなしを延々繰り広げて
いた。
若者のうち1人は「明日の会議の準備
があるので」と早々と帰ってしまったほどだ。
夜も更けて、そろそろ店も閉まろうという時間に
のれんをくぐって外へ出た。
会計のお姉さんは
「いつもありがとうございます」と満面の笑みを
浮かべていた。
何かいいことでもあったんだろうか
駅へ向かおうとした瞬間、ぴゅう~と
冷たい風が吹く
「ずいぶん寒くなったもんだ」
これでも学生時代は友と夢を語り合ったものだ。
そんな日々を遠い昔に置き去りにして
寒さのあまり立小便をしたくなってくる。
アウッ!ウワウッ、ワウッ!
突然、犬に吠え立てられた。
僕より年輩のおばさんがこんな時間に
犬の散歩をしている。
まいった、まいった。
ーーーー(おわり)----
(あとがき)
一人称的な心境小説っぽいものって、芸のない人のやることなんじゃないかって思うこともあるんですけど、最低でもダイアローグじゃないと表現しきれないことがあるとき以外は自分みたいな表現者にとっては自然なかたちに思えることもあります。
まぁ、結構な歳なのに派遣バイトなんかをやってるもので、壮大なスペクタクルフィクションとかは土台ムリなんです。
そんなのは派遣みたいな一般労働が全部免除されててもムリだと思います。
若いころはギター持って、レッド・ツェッペリンかBOØWYになりたかったんですけど、そんなのは土台ムリだったって気づくのに随分な時間がかかってしまいました。
かく言う今も、ひょっとすると到底ムリな何かをそうとうは自覚せずやろうとしているのかもしれません。
まぁ、で、そんなかなり愚か者かもしれない私は四十をすぎて、人の尊敬や信頼を受けるどころか年長者は無論、同世代からも、また自分の半分も生きてない年齢の人からもボロくそいわれたりすることもあるわけで、そんな中高年の哀歌を焼きとり飲み屋の情景に託したわけですけど、さて、いかがでしたでしょう。
これは昨日の晩に(10月15日)に書いたんですけど、あと2つあって②③として、もう少ししたら出しますのでそちらもよかったら読んでくださいね。
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