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個人評価の世界によって病んだ人々

40近くになって未婚の人とか増えてますし、就活自殺とかありますよね。

どうして、世界はこんなに生きづらい場所になってしまったのか、自分なりに考えてみました。

タイトルにも書いてありますけど、日本って、いつのまにか、個人評価の世界になってしまったんです。

フラれたり、就活に失敗した時、それは、個人としての自分が低い評価を受けたって捉えますよね?

昭和から平成、そして令和に変わっていく中で顕著になったのは、環境から
切り離された個人としてのあなたが問題にされるようになったことです。

「人」っていう漢字の由来は「ふたりの人間が合わさってる」という意味の象形だとはかなりの人が聞いたことあると思います。

つまり、人間の世界は、単体としての個人でできあがってるのでは実はなく、組み合わせの世界なんだと

算数の世界では「1」+「1」=「2」ですよね。

人間の世界は「1」+「1」=「0.5」にもなれば
「1」+「1」が「5」になったりはフツーにあります。

こういったマジックが人間界の妙味だと思います。

齢のいってる人だと、個人としてのアイツはそんなに好きじゃないんだけど、仕事で組むとメチャクチャ捗るとか
すごくいいヤツなんだけど、仕事で組むっとイラっとするとか、足を引っ張られてばかりといった経験のある人はそこそこいるんじゃないでしょうか?

こういった組み合わせのマジックってあって、平成から令和に移って、こういった組み合わせのマジックをほとんど知らず、単体としての個人評価の世界しか知らない人が増加しているようです。

男女関係も仕事場も昔は組み合わせの世界だったと思います。

協力関係といってもいいでしょうか。

単体としてのあなたの個人スペックなどではなく、組み合わさったときどうなるかという余裕があったのが昭和のころです。

昭和はもう終わったんだから、古いはなしはやめて、次へ行こうよ!

いや、気もちはわかりますが、もう少し、アラフィフジジイの戯言につきあってくれると嬉しいです。

文明が進歩して、デスクのひとつひとつにパソコンが置かれると、エクセルやプログラミングがどれだけできるかみたいなスペックの世界に移行したんだと思います。

組み合わせの妙味というのは体感としてよく分からない人も増えたでしょう。

今の人は、個人スペックが高くなければ生きてる意味がないという世界にいると思います。

今の人の多くがもっともやりたいことは、自分のスペックが高いことの証明に成功することです。

尊敬される人も妬まれる人もかなり、スペック(能力)が高いことが実証された人だと思います。

文明が進歩するほど、昭和のような協力の必要性がなくなり、組み合わせの世界ではなく、個人スペックを張り合う世界が加速したのだと思います。

昭和の時代は、職場で「べらんめぃ!」とか怒鳴りながら、ぶつくさ言いながらも、しかし協力しあうのです(70年代のドラマとか見れば分かります)

平成から令和に入ると、怒鳴るヤツとぶつくさ言うヤツはスペックの低い有害な輩として容赦なく切り捨てられます。
デジタル記録に残って、一生涯の不利が約束されることもあります。

怖れをなした個人は、コンプライアンスに抵触しないよう、悪循環的に個人スペックの世界にのめり込みます。
フツーの就職をする人は、全員ドラえもんに出てくる出木杉君でなければいけなくなったのです。

個人は、つねに、環境から切り離された状態で、単体として評価されるのです。
恋愛においても、就活においても

本来、それらは、個人スペックではなく、組み合わせと協力の世界だったのです。

いまは、恋愛も就活も、個人スペック的な断罪をされる場所なのかもしれません。
だから、恋愛も就活も避けて通ろうとする人が増えてます。

断罪もいろいろあります。

「かかわってはいけない人」
「サイコパス」
「縁を切るべき人」
「クズ男」

恋愛や就職を組み合わせの世界だと考えられれば、3回4回挫折しても立ち上がれるんじゃないでしょうか?

組み合わせが悪かっただけだと……

ところが、自己評価的なスペックの世界は、どこまでいっても自己断罪しかないんです。
「わたしが○○だったから……」

かなり前の秋葉原の殺人も、つい最近の福岡のストーカー殺人も、個人的には、自己評価的な自己断罪が原因のかなりを占めていたように思います。

こういったことも、組み合わせと協力の世界が文明の発展とかで消え失せてしまい、自己評価の世界が幅を効かせ過ぎたからではないかという気がします。

組み合わせの世界は、もう一度言いますが、「0.3」の個人が誰と組むかによって「2」や「3」に化けることもある世界だと考えます。
個人評価的なスペックの世界だと「0.3」を「1」にしようとしたら絶望的努力がいるかもしれません。

でもわたし、人嫌いだから、ひとりで仕事して、ひとりで生きたいな。

ん~、まぁ、最終的に個人の好みもありますし
天涯孤独みたいな宿命の人もいます。

あと、協力や組み合わせではなく、個人として「神」を指向する人もでてきます。
古くはキリストですとか、今だとイチロー、大谷選手、藤井棋士、柳井社長、孫社長、こういった人たちは、協力や組み合わせの世界というより個人として「神」ベクトルの人と言えましょう。

個人評価とスペックの世界は、最終的に「神」を目指さざるを得ません。

問題は、本来、個人スペックや評価より、組み合わせや協力の世界に生きた方がいいフツーの人までが「神」を目指し、自己断罪に明け暮れているということです。

きっと文明が高度になりすぎたのでしょう。

恋愛や結婚、就職は自己断罪の場でしかなくなったようです。

昭和においては、それらは、個人評価と断罪の世界ではなく、組み合わせと協力の世界だったのだと思います。

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