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自分の買った不信について考えてみる

家族ではない関係というのは、しばしば、単に疎遠になるというより、不信によって壊れるものもあると言えるだろう。

そのいくつかは残念なものでもある。

そこで、どういうときに不信が発生してしまうのかについて、少し考えようと思う。

不信が生じた事態に、こちらが、意図的に悪計や奸計を目論んでいた(つまり、はなから騙すつもりでしかなかった場合)は、別にどこかで不信が生じるのは、むしろ当たり前のことであり、それなら、関係がこわれても、ある意味ノーダメージかもしれない

しかし、他の多くの、別に奸計などを目論んでるわけではないのに
不信を買うケースは
たとえば、こちらが、いつなんどきもあなたを最優先し、最大尊重できるわけではないことが露呈した(または、それが積み重なった)ときに起こりやすいのかもしれない。

いつなんどきもあなたを最優先し、最大尊重というのは、神か親のレベルであって、実際問題としては、神か親でもめったにないかもしれない

というのは、人間界というのは、特に何らの悪事を働いたわけでもない人間が間引かれるのは、どの人もニュースなどで承知しているだろう。

不安に駆られた僕らは、相互に神か親レベルの何かを求めるようになり
特に、裁判などを起こす必要が生じたわけでもない事柄に失望して、関係を解消するのを繰り返して、齢をとるのかもしれない

そういうことをある程度客観視できるようになれば、僕等は、依存を諦めて、自立を志向するというわけだ。

現代は、薄い依存をあちこちに持ってるのが普通なので
「推し」とか「超絶ファン」の対象さえあれば、あとの関係が壊れても、ひょっとするとどうにか生きていけるのかもしれない

しかし、いくら自立を志向したところで、たとえば、山奥とかにひとりこもって、ほとんどの時間をひとりでやってける木こりのような自足性の中に生きれるのでなければ、単純に経済活動の必要性から、他者と何らかの依存をしないと、生存が難しい場合も多い。

問題は、依存がどの程度のストレスを生むかだ。
家族とかであれば、関係にストレスがしょうじても(たとえば介護など)簡単に縁を切れないことが多いだろう(これも、個人差が大きいようだけど)

物騒なはなしだけど、ある種の殺人(自殺も一応含む)は、ストレスでしかなくなった依存や、裏切られた依存の、自己処理でもあるのだろう。
たとえば、相模原の障害者施設の殺人も、容疑者は、当初、障害者と良好な関係を築ける期待をもって、その職場に就いた(憶測でしかないが)
期待が裏切られたから殺してよいのだということにならなかったとしても
多分、そこに裏切られた依存か、ストレスでしかなくなった依存があった。

ホームレスとかも、依存の限界の認識が、それを選択させてる部分はあるのだろう。
ホームレスは、働くのがイヤだとかいう問題というより
社会の中で、適切な依存を築くのが想像しにくい状況なのだろう

この依存は、別に人間でなくとも構わない
たとえば、トヨタの車が欲しいみたいな依存でも人は働くことに頑張れるのかもしれないし
傑作イラストを描いて、世に認められ、収入を得るようなことに依存して頑張る場合もある。

しかし、いかなる依存とも切り離されてる個人は、理論的に、権力に脅されない限り(昔のプランテーションの奴隷みたいに)働けないだろう。

水と食物さえあれば生きていけると豪語するのであれば、働くハズはないのだ
あるいは最小限しか働かない
働く理由がない

こう考えると
ある種の、不適応や無縁状態は
依存の失敗によるとも言えそうだ

失敗を繰り返した人は多く、依存に淡泊さを見せるようになる
しかし、淡泊さは、これに理解を得られない場合は、単なるムラ気や気まぐれ、自己中心と解釈されて、依存に失敗し
悪循環的に依存に淡泊になってゆく
いや、はなはだしくは、奸計、悪計、いずれもないのにかかわらず、不信の目を向けられることもあるということだ

SNSなどの空間に多く漂ってる
「関係を切ったほうがいい人の特徴」とか
「サイコパス野郎の特徴」とかいったサムネイルも
つくった人の意図はどうあれ、関係や依存に淡泊になる人の増加を煽ってる気がする
こんな幕府の将軍が臣民に求めるみたいな、忠誠と完璧を求められるなら
いっそ地下道で寝てるほうがマシだと考える人もいるかもしれない

まぁ、これも、僕がYouTubeやXの無料ユーザーで
無料ユーザーのアルゴリズムと広告は、有料ユーザーのタイムラインより劣悪(?)なのかもしれない(エビデンスはないが、常識的にそうだろう)

はなしがフラフラしてしまったが
格差の拡大とは、依存の相互不可能性の拡大でもあると思う。
依存のムリげー的状況を生きてる人は
依存に失敗した数だけ依存に淡泊さを見せるようになり
それがまた悪循環的に失敗に結びついてしまう。
依存失敗のスパイラルを生きている

いや、笑いごとでない

わたしは、そんなものとはそれこそ無縁です、と、言い切れる人はどのくらいいるのか?

こう考えると
不信の発生とそれによる関係の解消は、要するに多く
奸計や悪計やサイコパス性によるものであることは比較的少なく(おそらくでしかないが)ただ、タイミングや温度差のようなものがズレたということなのかもしれない
そして、人生で失敗した程度と置かれてる境遇の劣悪さにある程度比例するかたちで、よりそれらのものに無頓着になってゆくのだと思う
他の心配事に気をとれらてるか、依存関係の成立にあんまりこれといった期待を持たなくなってしまうというのもあると思う。
たとえば、40年以上、これといった関係性への依存なしに生きてこれたというなら、そういったことへの無頓着さやアバウトさが顔を出しても、別に大した不思議はないではないか?
なぜなら、人生で1度も魅惑的なケーキを与えられていないというなら
依存に執着を示さない傾向が出てもおかしくない

いや、こうも考えられる
たとえば、あまりに苦痛ばかりを与えられた人間は、苦痛をこそ抱き締めてしまって、そこから出れない……

タイミングに無頓着な人間は、たとえばバッターボックスに立って
絶好の狙い球が来ても、ボーっと見過ごしてしまう
三振が続いても
「どうせ大谷にはなれないのだから」と自己納得してまえば
悪循環的に絶好のタイミングに無頓着になり
病的なマゾになれば
むしろ、三振を楽しむみたいな境地もあるかもしれない(いや、実際はここまで行けば自死願望が強まる可能性が高いと思うが)

この、タイミングに無頓着みたいな感じは、農耕民族により現れると思う。

なぜなら、農耕社会というのは、1瞬のタイミングに敏感である必要があまりない社会だからだ。

こう考えると、社会アイデンティティーが(長く)定まらない人の何割かは
まわりの誰か(の期待)とのタイミングのズレに、失敗を繰り返すほど無頓着になっていく。
こうして、誰とも周波数(タイミング)が合わなくなっていく

いや、ちょっとはなしがやや無軌道になってきたので
そろそろ締めくくると
不信というのは、多分、ある人を、いつなんどきも最優先し、最大尊重はできないということが露呈したとき、あるいは積み重なったとき
それに対して、はなしあいなどで事情の説明の機会が設けられなかったというのもあると思う。

だから、不信で切れる関係というのは、しばし、悪計の絶対的証拠をつきつけられて破綻するというより、相互誤解、または、相互勘違いみたいなことで勝手に(?)切れるのかもしれない

たとえばですけど、
多目的トイレでの不祥事みたいな絶対的証拠をつきつけられても、関係って、ある場合にはそれだけで破綻しないこともあると思います。
ところが巷の関係の多くは、それくらいの証拠すらない時点で
相互に勘違いしてジエンドすることも多いのだと……

今日のようなネット社会は、憶測でしかないアイデアが無限に膨らみやすいので、たとえば、被害妄想みたいのも、昔より容易に膨らみます

ところが、不安に駆られた僕等は、はやく決断したいため
状況を自分なりにジャッジしたいのです。

現代は、特にネットができてからは、ある個人の内部が、何層もの複雑なレイヤーをなしており、そのレイヤーのあちこちを行き来して忙しい僕らは、早く結論を出したいあまり、相互に不信をつくりだし、悪計がないにもかかわらず不信を相互に生んでるというわけです。

いや、さらにわかりにくくなりましたが
要するに、巷にある多くの不信は、明らかな悪計とかサイコパス性によるとかいうより、相互勘違いによる、適切な依存の失敗であり
失敗を繰り返すほど、依存の成立に淡泊かつ本気にはならないという傾向を帯びてスパイラル化するというはなしかもしれません。
たとえば、Xにいる敵論客などとは、ある意味同じ本気度でやってれば、不信というほどのものは生じないかもしれません。
ところが、失敗を繰り返し、現実の諸関係に淡泊になってしまえば、ムラ気のようなものが生じてしまい、まわりの人と周波数が合わなくなるかもしれないということです。

(あとがき)
多少、自己弁護っぽい論旨展開になってしまいましたが、それは人間の性だから仕方がないとはいえ
結局、僕は、不信について考えるというより
関係性の瓦解のメカニズムや、関係性の不成就のメカニズムについて考えることになりました。
ちょっとスマホでスクロール読みするには向かない文章だったかもしれませんが
ここまで読んでいただきありがとうございます。
もし、それなりに一考の価値ある論旨展開だと思われましたなら
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ではまた。

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