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海辺でランチ/中澤日菜子

『孤独のグルメ』というドラマをご存じだろうか。俳優の松重豊さん演じる井之頭五郎という男性が、仕事の合い間にひとりご飯をする、ひと言で言ってしまうとそういうドラマである。
 ちなみに原作は久住昌之さん、作画は谷口ジローさんというコンビで描かれた漫画である。一話完結で、実際にあるお店を井之頭五郎が訪ね、料理をたいらげる。ドラマの設定も同じ。ただ最近のシリーズでは原作には出てこない町の名店を食べ歩いている。

 このドラマがじつに食欲を刺激するんである。五郎が食す数々のご飯。もう見ているだけでお腹の虫が、ぐうと鳴く。我が家ではとくに夫がこのドラマの大ファンで、ことあるごとに紹介されたお店に行きたがる。とはいえなかなか訪れる機会もない。
 ないなら作ってしまえ! とばかり、九月の四連休、後半の二日間、紹介されたお店を訪ねてみることにした。場所は横浜中華街、中華釜めしが名物のお店である。せっかく行くなら温泉にも浸かりたいねということになり、一泊することが決定。湯河原の温泉旅館を予約した。

 さあ、出発!
 出かける前、我々は楽観的だった。いくら四連休とはいえ、まだ新型コロナの流行は収まってはいない。テレビでがらがらの中華街も目にしている。きっと楽々入店できるであろう。そんなふうに思っていたのだ。
 だが、行ってびっくり。中華街は、人・ひと・人で大混雑である。きっとみんなずっと外出を我慢していて、この連休くらい楽しいことをしようと出てきたに違いあるまい。考えることはみな同じである。

 そしてお目当てのお店。ここもまたびっくり仰天の大行列であった。まだ開店前だというのに、店の前からずらり数十人は下らないお客が列を成している。ざっと考えても二時間半は待ちそうな勢いだ。
 これは無理だ。あとの予定に影響してしまう。行列を目にしたわたしたちは泣く泣く中華釜めしを諦め、他店へ向かった。どこにしようか迷いにまよったすえ、「徳記」という料理店を選ぶ。このお店も美味しいと評判のお店だが、運よく並ばずに入ることができた。

 夫が頼んだのは海鮮タンメン、そしてわたしは牛バラ麺。せっかくなので「おすすめ」と言われたレバーの四川味炒めもオーダーする。
 牛バラ麺は、八角がほどよく利いたスパイシーな牛バラ肉の塊が乗っている醤油味のラーメン。よく煮込まれた牛バラ肉は、噛むと甘辛い肉汁がぷしゅうと広がり、口のなかでほろほろ崩れていく。レバーの四川味炒めも美味。レバーは厚くて柔らかく、臭みはまったくない。程よい辛みをまとったしゃきしゃきの炒め野菜も絶品だった。

 大満足でお店を出、しばらく中華街をうろついてから、今宵の宿へ向かう。
 久しぶりに入る温泉はこころもからだも、のーびのび。広い湯船で手足を広げると、心地よさにため息がでてしまうのであった。

 翌朝チェックアウトした我われは「海が見たいね」ということで意見が一致、近くの海岸に向かった。海もまた久しぶり。どこまでも続く水平線、寄せては返す波――海って不思議だ。いつまで見ていても飽きないのだから。
 せっかく海辺に来たのだから、ここでランチをしようということになり、近くのパン屋さんでサンドイッチをテイクアウトする。海風に吹かれながら齧るサンドイッチは、これまたとても美味しかった。

 いつも思うことだが、海辺で食べるご飯って、格別の味がする気がする。
 小さいころ、家族で行った海水浴。泳ぎ疲れたからだで食べるお握りは、なんだかやたらと美味かった。いつもの、母が作ってくれる梅干しのお握りなのに、いつもより何倍も何十倍も美味しかった記憶がある。
 潮風がちょうどよいスパイスになってくれるのか、はたまた雄大な風景が食欲を刺激するのか、とにかくお握りひとつとっても、ふだんとは違う味がした。

 この夏は残念ながら海水浴ができなかった。でもきっと来年は、泳いだあとの美味しいランチを楽しむことができるに違いない。いや、そうなってほしいとこころから願いながら秋の海をあとにした。

【今日のんまんま】
牛バラ肉にとろりとしたあん。麺はしこしこの太麺。青菜が口のなかをさっぱりさせてくれる。んまっ。

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(徳記)

この連載では、妻、母、元編集者、劇作家の顔を持つ小説家であり、新刊『働く女子に明日は来る!』(小学館)が好評発売中の中澤日菜子さんが、「んまんま」な日常を綴ります。ほぼ隔週水曜日にお届けしています。

文・イラスト・写真:中澤日菜子(なかざわ ひなこ)/1969年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。日本劇作家協会会員。1988年に不等辺さんかく劇団を旗揚げ。劇作家として活動する。2013年に『お父さんと伊藤さん』で「第八回小説現代長編新人賞」を受賞。小説家としても活動を始める。おもな著書に『お父さんと伊藤さん』『おまめごとの島』『星球』(講談社)、『PTAグランパ!』(角川書店)、『ニュータウンクロニクル』(光文社)、『Team383』(新潮社)、『アイランド・ホッパー 2泊3日旅ごはん島じかん』(集英社文庫)、『お願いおむらいす』(小学館)がある。最新刊は『働く女子に明日は来る!』(小学館)。
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