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【全文公開】『京都 古民家カフェ日和』刊行記念!② 本文から2軒を先行公開します/(店名なし)

川口葉子さん著京都 古民家カフェ日和(4月16日刊)の発売を記念して、本の中から2軒分の本文を先行&無料公開します。

\平日5日連続投稿/
シリーズ前作東京 古民家カフェ日和の本文公開に取材こぼれ話を加えて、平日5日連続投稿の予定です。

なかなか遠出しづらい状況ですが、美しい写真を眺めながら、カフェめぐりを追体験いただけたら幸いです。

本記事では、新刊・京都版から、2軒目のお店をご紹介します。

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(店名なし)

江戸時代に建てられた
大徳寺の寺侍の家

〈紫竹〉

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「知り合いが古民家で喫茶店を始めました」と、ゆるりとした口調で好日居(※)主人は言った。 (※)本書掲載の京都市内にあるカフェ
「ご家族が代々住んでいた家で、店名も看板もなしに営業しているんです。もしご興味があれば、いらしてみては?」

 ……店名が、ない?
 頭の中が質問だらけになった私に、好日居主人は微笑してお店の場所と営業日の確認方法だけ教えてくれた。こういうとき彼女はいつもよけいな説明を加えず、必要にして充分な情報のみ教えてくれるのだ。

 長い間、喫茶空間を訪ねる旅をしているうちに、いち早く新しいカフェや隠れた喫茶店を探したいという欲望は遠いものになった。めぐってきた縁の糸を大事にしながら、ただ静かに好きなものに愛情を寄せ続けていればいいと思っている。

 そんなわけで数週間後のこと。白い暖簾が下がる玄関の前に立ち、なにげない家の顔つきに心惹かれていた。竹垣に南天の赤い実。暖簾に踊る木漏れ日。二階の虫籠窗(むしこまど)。媚びのない、されどあたたかな笑顔で迎えてくれる家だ。

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▲12 月の午後、戸口の両脇には祇園祭のちまきとお正月飾りの仏手柑(ぶっしゅかん)が飾られていた。


 室内に入って、想像以上の空間のひろがりと吹き抜けの天井の高さに驚く。洛北(らくほく)の特徴なのだろうか、隣家と軒を寄せあう洛中(らくちゅう)の小ぶりな町家とはまったく違う、がっしりと大きな家の懐に抱かれる感覚。
 注文したコーヒーと焼き菓子が素敵においしかったことに背中を押され、一人ですべてを切り盛りしている女性にあらためて声をかけ、家の来歴を訊ねてみた。

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「この建物は文化四年(一八〇七年)に大徳寺の寺侍の家として建てられたそうです。私の先祖は大徳寺の大工でしたが、どんな経緯でこの家を受け継いだかはわかっていません」と、彼女 ――のちに橘沙織さんとお名前をうかがった ―― は言った。
 ということは、二百十年以上前、ちょうど京町家の成立時期とされる頃から住み継がれてきた家なのだ。

「なぜ店名がないんでしょう?」
「じつは、ネットで検索されないように伏せているんです。ここを知っているかたやご近所のかたに普段づかいしていただきたいので」
 橘さんの語り口は、どこか飄々としていながら芯の通ったものだった。さらに詳しく聞きたくなって、後日再びお店を訪れた。

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 橘さんは東京育ち。かつてここに叔祖父が暮らしていた時代、兄の十三参りの折に訪れたのがこの家に関する最初の記憶だという。

「最後にこの家の主となったのは、祖母の弟でした」
 その人物が十五年ほど前に亡くなったのを機に改修工事をおこない、以降はギャラリーとして十年ほど人に貸していたという。そして二〇二〇年、京都へ移住して働いていた橘さんがこの家を受け継ぎ、喫茶店を開いたのだった。

 ギャラリーではなく喫茶店にしたのはなぜでしょう?
「いろいろな人に、この家に〝居る〞ことをしてほしいから」
 なるほど。家の生命はただ単に人の出入りがあるだけではなく、そこで人々がいいときを過ごすことで初めて輝き、永らえるもの ―― そんなイメージなのかもしれない。

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 加えて、橘さんは生粋の〝喫茶人〞だった。京都に移住して以来、毎日のように仕事帰りなどに自家焙煎珈琲店「六曜社」に立ち寄る習慣をもち、さしたる目的もなしに喫茶店で余白のような時間を過ごすことの魅力を熟知しているのだ。
 もちろん自分のお店で使うコーヒーは、六曜社地下店の奥野修さんにオリジナルブレンドを依頼した。

「おいしい豆を殺してしまわないように、自分は手を添えるだけという意識で抽出しています。豆自身が気づかないうちにコーヒーができていた、というくらいの静かさで」
 すべてにおいて「殺さないこと」を大事にしたい、と橘さん。その深い敬意は、継承した江戸時代の家についても同じである。
「木材も流し台のタイルも、あらゆるものが私より年上。若輩者がお掃除させてもらってます」

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 少しの間、私もこの空間に〝居る〞ことに専念してみた。
 格子戸のすき間から陽光が土間に射し込み、光と影の強いコントラストを作っている。暖簾ごしに木漏れ日が揺れ、あまりの美しさにせつなくなる。結晶化して永遠に保存できれば、と思いながら口に入れたメレンゲを上あごでカシャ、と壊した。

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本コラムは平日5日連続で19時ごろに更新します(本記事は2日目です)。
次回もお楽しみに!
※1日目の記事はこちら

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川口葉子(かわぐち ようこ)
ライター、喫茶写真家。全国2,000軒以上のカフェや喫茶店を訪れてきた経験をもとに、多様なメディアでその魅力を発信し続けている。
著書に『京都 古民家カフェ日和』『東京 古民家カフェ日和』(世界文化社)、『京都カフェ散歩 喫茶都市をめぐる』(祥伝社)、『東京の喫茶店』(実業之日本社)他多数。