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【連載小説】「北風のリュート」第26話

前話

第26話:散らばる異変(2)
【6月1日深夜 鏡原中央病院】
 もう限界だ。
 鏡原中央病院で看護師三年目の朝倉凪は、疲労が錘のように貼りついた体を引きずり夜の病棟廊下をふらつくように歩く。ダウンライトが凪の小柄な影を薄暗いリノリウムの床に引き伸ばす。ナースステーションの明かりが誘蛾灯のようだ。
 ピーポー、ピーポー。
 まただ。サイレンが川向うからさざなみのように近づいて来る。
 また呼吸困難での搬送だろうか。
 連日ひっきりなしに運び込まれる。昼過ぎに到着した救急車が患者を降ろした直後、救命士が崩れるように倒れた映像が脳裡から離れない。次は私かもしれない。夜勤明けでもなかなか帰れず、気づいたら夕方になっていることもざらだ。体力も気力も限界に近い。
 ゴールデンウイーク前後から救急搬送が増え始めた。連休中によくあるコンビニ受診だね、と同僚とため息をついた。高齢者の呼吸困難での搬送が目立ち、暑熱順化がうまくいかない熱中症だろうと話していた。それが、連休が開けても急増していく。退院した患者が、また呼吸困難で搬送されてくるケースもある。呼吸器内科の病床だけでは足りず、循環器や他科の病床も借りるようになり、それも満床に近い。医師も看護師も医療スタッフも、誰もが疲弊し、無駄口すら吐く気力もなくなっていた。
 この現状を誰かに知ってほしい。それだけだった。
 先輩看護師の水田さんはまだ巡回から戻って来ない。一人きりのナースステーションでプライベートのスマホ画面を開く。廊下の暗闇が底なし沼のようだ。一昨日は有田看護師長がめまいを起こし、皆が色めきたった。大丈夫よ、すぐ治まるから、各自すべきことをしなさい、と言い置いて仮眠室に倒れこんだが、三十分もせずに戻り指示を出していた。ファンデーションの下の皮膚には血の気がなかった。
 足りない人手。どこにもぶつけられない苛立ちと不安。
 捨てアカでつぶやくぐらい許されるんじゃないか。

 《謎の呼吸困難患者急増で、鏡原の医療現場崩壊寸前》と「#鏡原で謎の病」「#医療崩壊」のハッシュタグをつける。そのタイミングで壁のナースコールが点滅した。六○三号室の山根さんか。凪はデスクに両手をついて立ちあがり、鉛のような体を暗い廊下へと這わせていく。
 翌日は外来のない日曜だというのに、勤務をあがれたのは昼過ぎだった。
ロッカーでのろのろと着替えながら、スマホの電源を入れて驚愕した。
 リツイートがこれまで目にしたことのない桁数の数字を叩き出している。呆然と画面を眺めている間も拡散が止まらない。
 凪は怖くなって投稿を削除し、アカウントを閉鎖する。電源を切ってスマホをバッグの底に突っ込んだ。

続く


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