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【連載小説】「北風のリュート」第27話

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第27話:散らばる異変(3)
【6月2日 鏡原/名古屋】
 ボッシュが死んだ翌日、日曜の朝というのにインターフォンが鳴った。
すでに10時を回っていたが、空は泣いているように曇っている。
 美沙が玄関扉を開けると、流斗が立っていた。
 立原が昨日の昼過ぎに駆けつけたのにも驚いたが、他人のペットが亡くなったくらいで、つくばから、わざわざ……。
 美沙は口を半開きにしたまま固まった。
「違いますよ」
 心の声が漏れていたのかと驚いて、美沙は口を手で覆う。
「レイさんに付き合ってほしい場所があるんです。ボッシュの死を無駄にさせません」
 N大学に連れていくという。
 抜け殻のようなレイを名古屋まで連れて行くなんて無理だと、首を振ると
「だからですよ」と、いつになく強い口調で迫る。
「レイさんをまた、心の扉の奥に引きこもらせていいんですか。それに」
 と言葉を切る。
「彼女の力が必要なんです」
 あがらせてもらいます、と断りを入れレイの自室にためらうことなく向かう。美沙が慌てて後を追う。
 
 明日、荼毘に付すボッシュはドライアイスを詰めて、レイの部屋に安置されていた。流斗はひざまずき手を合わせる。黒と白の毛並みは、生きているように波打っていた。鼻の奥が一瞬つんとする。
 流斗の突然の入室にも表情を固定したままレイはベッドに腰かけ、がらんどうの目で窓の外の昏い空を眺めている。陶器の人形のようだ。そこにレイは居るのだが、風蟲ワームのように輪郭だけで空気に透けてしまいそうだった。
「N大の徳山から気になる画像が送られてきたんだ」
 これを見て、とスマホ画面をかざす。微生物が3体並んでいる。
 レイの切れ長の眼窩に光はなく、スマホの画面が像を結んだのかはわからない。
「ということで」と流斗は立ち上がり、「今から徳山のところに行くよ」とレイの手をぐいと引き、有無を言わさず部屋から連れ出す。レイは抵抗すらせず、マネキンを引っ張っているようだった。
 玄関の上がり框で待ち構えていた雅史は、スニーカーを履く背に「車を出そうか」と提案したが、その言葉を無視して流斗は振り返り、「できるだけ酸素ボンベや酸素缶を確保しておいてください」と脈絡ないことを口にして小羽田家を後にした。
 雅史と美沙は、まるでつむじ風だ、と苦笑した。
 
 レイは電車に乗ったのも覚えていない。
 意識は靄のなかにあり、頭が重く息苦しかった。車窓を流れる鏡原の空は、レイの心と同じくらい重たく淀んでいる。二人掛けシートの窓枠に頬を預け目をつぶる。列車の振動が責めたてるように頭に響く。やがてトンネルに入り、闇に引き込まれた。
 気づくと明るい空がぽかんとあった。汗ばむ陽光の下、悠々と泳ぐ魚がレイの頬を撫でていく。街路樹の緑と葉陰をすり抜けて届く陽射しが、歩道にプロジェクションマッピングを描いている。光がちらちらと戯れる。
 去年の今ごろは、鏡原もこんな空だった。
 あったはずの世界。今は手の届かない世界。
 わたしは夢の中を歩いているのだろうか。
 足もとにアスファルトはあるが、それを踏みしめている感覚がない。
 ボッシュが死んでから丸一日、レイは夢と現実の区別がまだらで、時計は昨日の朝から止まっている。涙を流せない自分の非情さを責めたけれど、いったん堰を切った今は、風が揺れただけでも瞳がにじむ。
 欅並木を抜け、理学部B棟の表示がある建物を3階まで上がる。手は痛いくらいしっかりと流斗に握られていて、その痛みだけが現実との接点だ。大きなガラス窓から降りそそぐ初夏の陽が踊り場で跳ねていた。去年までなら強い陽射しに眉をしかめただろうが、今はこの明るさが羨ましい。曇り空は心も重い影で覆う。それが息苦しさの呼び水になっているのだろうか。
 研究室はあいかわらず乱雑だが、実験台の上はきれいに片付いていた。
 髪を首筋で一つに束ね、丸眼鏡をかけた白衣の徳山の姿を認めて、レイは今どこにいるのか認識した。
「やあ、待ってたよ」
 流斗に指示された条件で実験をして驚いた、と徳山はまくしたてる。
 風蟲ワームを入れた試験管の温度を上昇させ富栄養状態にすると、透明な風蟲が赤く変異した。徳山がパソコンのモニターに画像を次々にアップする。流斗が食い入るように見つめる。体の下半分だけが風船のように膨らみ赤色化している画像に、レイも目を瞠った。
「よし、これで赤い微生物は風蟲の変異体だと証明できる」
 流斗がにんまりする。
「それだけじゃないぞ」徳山がプリンターから出力した紙を流斗に手渡す。
「分析に回していた結果が出た。赤い風蟲には毒性がある。人体に影響のない毒だが」
「毒か」と流斗が、やはりという顔で解析結果を仔細にチェックする。
「毒?」聞き取れないほどの声でレイがつぶやき、視線を宙に漂わせる。
 言葉を咀嚼しようとしているのか、埃にでも気を取られているのか。
 不思議な雰囲気の少女だと、徳山はレイを観察する。前回も感じたが、心ここにあらずのところがあり、視点がさまよいがちだ。それに……。


28話に続く


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